二の句が次げないでいる父に、私は、
「いじめられるから」
と、かぶせて言いました。
「そんなんで、どうするの・・・・」
私の三発言を聞いた後の父親の言葉の力は、明らかに弱まっていました。 “【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その2” の続きを読む
【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その3
両親は、進路に口出ししなくなりましたが、19歳の私の中にも、人生の磁針はありませんでした。 “【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その3” の続きを読む
【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その4
『奥村進、山浦秀男の倨傲
2005年11月11日埼玉県立芋水高等学校1年4組の生徒たちは6時限目に保健の授業を控えていた。朝のホームルーム中にクラス担任の城伸助より、「会議室にて後天性免疫不全症候群の病理を解説したドキュメンタリー映画の後半部を鑑賞する」という授業内容が語られた。会議室には横5メートル縦8メートルの幅を取る長細い卓を八台、天板が「口」の字を形取るように配置してあり、卓の外周に沿って70脚に及ぶパイプ椅子が並んでいる。立瀬将樹は、五時限目と六時限目の間の10分休み中に会議室を訪れ、四角い陣形を築いている書き物台の、南に向いたあたりの箇所を用いるべく歩みを進めた。「エイズの実態」の前編は、つい1週間前の昼下がりに同じ会議室にて公開されていた。11月4日の朝城伸助が、当日の保健の授業に他の部屋へ学級全員が移動する段取りの含まれる事に触れるや、立瀬将樹の胸中にはある懸念が湧き起こった。彼は憂いを募らせながら、五時限目の授業が終わる時刻を迎えそうして真っ先に会議室まで馳せかけた。所定の場では城伸助が映写機の準備をしていた。立瀬将樹があり余る数のパイプ椅子を見渡した後に、
「席順は?」
と尋ねると、城伸助は微笑みつつ答えた。
「いや、フリーです」
立瀬将樹は表情を曇らせつつ一席を選んで腰を下ろした。1年4組の面々は、各自に普段から交際のある同級生とは絶えずお互いの認識の内に寄りて、昵懇である様を明確にし、その絆し具合を保たせたいという意識を持っている。こうした衆が会議室に集えば特に親交があると認め合うた者同士で構成した小集団ごとにその成員の数に見合うだけの空きパイプ椅子の連なりを探す、という次第で、席は埋められゆく。そうして自分は、自分だけが両隣の席の空いている生徒であるのを見るによって、級友の誰とも馴染みの間柄を築けていない事実を明確に認識してしまい、普段よりも余計に孤独感に苛まれる、以上が立瀬将樹の予期した来歴だった。彼には学級へ、出席番号順に則った並びで席を塞ぐように指示が出されるのなら、右の予測は杞憂に終わるとの論理もあった。立瀬将樹は、担任の教師が生徒達の着座する位置を指定しない旨を表した場合においても、自分が苦しむのを免れるためには、先方の意向を覆させなければならない、とまで決心を致していた。1年4組の何人もが、パイプ椅子に腰を下ろしていない内ならば、席順に関するルールが変更された際に、席を移動する必要のある者もないので、交渉相手を説得しやすい、とて彼は、学級の中で一番先に会議室に訪れた生徒になるという条件を満たしたのであった。ところが、実際に自由席ルールを忌まわしがる理由を説明する段に至って、立瀬将樹は「自分には友達がいない」という語を口にするのに、想像していた以上の抵抗を感じ、それを成し得なかった。そして、自由席ルールが施行してあるままで映画の鑑賞会は催され、彼はほぼ危惧していた通りの経過を辿った。スクリーンは「口」の字型の卓の南西の角の先に設けられており、画面に近い座席は映像を見やすく人気がある、従って、そこに居れば、少なくとも自分と他の同級生との位置関係がかけ離れて断絶感の程度が極まることまでは免れる、と踏み、立瀬将樹は腰掛ける場所を南向きの一席に定めたが、この判断は裏目に出た。鑑賞会が級友との仲を確かめ合う場になりさえすれば満足で、映画の視認などは二の次であるところの、大多数の生徒は、入り口に近い北寄りの位置に座した。ただし佐藤辰巳は、立瀬将樹に比べれば、クラス内では社交もあるが、それを温めるより、保健のテストの出典にされるという映画の内容を玩味する目的を優先し、立瀬将樹と隣接しないまでもほど近い地点、南東向きの座席に身を置いた。映写機が動き出してからも立瀬将樹の「エイズの実態」の要旨を理解しようとする志は、時折、自分が今他人にどう思われているかの意識にかき乱された。自分に近接した佐藤辰巳はクラスメイトと交流の多い方でもないので、部屋の南方をのぞむ人が、学級の人好きのしない者が大勢から遠くへ寄せられているといった印象を抱くのには変わりないやもしれない、と不安がる一方で、彼は、党員が二人いるならば、「知識の含蓄を第一義に考える一派が動画を見やすい区画を占領した」という趣きをひけらかし得る可能性がある、との楽観を覚えた。これが遂行できれば、自分には佐藤とともに「人望の厚い者ほど優位とする価値観に頓着しない人物である」という体裁が付与され、以って室内の北側の面々が抱く「仲間同士で互いの存在を相肯定できる我々に対して南側の者たちは不幸だ云々」の見解は実感の乏しい物となるとて、立瀬将樹は映像の流れる間じゅう、何の引け目もないかの如くに取り澄ました表情を保ち、スクリーンと手元とにだけ視線を行き来させ、作中の論旨をメモするようにと配られた用紙に筆を走らすに努めた。やがて6時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、「エイズの実態」の上映は中断された。その続きが放映された一週間後の会議室において、立瀬将樹の座した場所は前回選んだ物と同じ椅子だった。先日と今日とで座る位置を改めるのは、前回の鑑賞会での身の処し方に苦難を感じていた証拠ととらえられて、佐藤辰巳とともに、「我々は教養を深める以外、眼中にない同志だ」と主張したのが、虚偽であったことが明白となってしまうと彼は考えた。
「辰巳があっちのグループに入ったぞ!!」
1年4組の面々が出揃ったところで、はしゃいだ奥村進が声高に言った。奥村進が肩の高さで腕を水平に伸ばして指さした先で、立瀬将樹と人付き合いの乏しさが同等とみなされたことを反省した佐藤辰巳は、クラス内で下から二番目に発言力を有すると目されている、よく見慣れられたまとまり―――赤崎悠、藤本雄飛、葛西信行に続く座席に腰を落ち着けていた。奥村進の発言に示された、立瀬将樹が哀れな境遇に陥った件を報道する意図を察したクラスメイト一同から我が身に注視が向けられるのを感じると、前回の視聴会において、自分と佐藤辰巳に対して、学級ののけ者同士が辛うじて心細さをしのぐ為に寄り合った、という見解が多くの同級生たちにより定められていたのかと彼は、昨週来の、己が学を修める事の他興味がない価値観の者らしく振る舞う努力が、全く無意義であった事に思い当たった。奥村進の隣で、やはり立瀬将樹に視線を注いでいるのは山浦秀男だった。立瀬将樹は2005年6月5日に山浦秀男の薄ら笑いを初めて目にした。立瀬将樹が昼休みの間じゅう図書館で過ごしているとの噂を聞きつけた山浦秀男は、まぶたをやや吊り上げて目を見開き法令線から上の頬の皮を頬骨の方へ寄らせて小高く盛り、それとともに上唇の引き上げられたすき間から歯列を覗かせる、という表情で、立瀬将樹に問いかけた。
「人生楽しい?」
四時限目が終わるとすぐに、一人教室から立ち去り、5時限目が始まる間際に舞い戻る立瀬将樹はどこで昼食をとっているのか?という議題についての1年4組内の関心が、幾日もかけて極まったのを受けて、ついにその旨を当事者へ問いただすに至った、得た答弁の内容をクラス中に触れ回るつもりの女生徒二人に対して立瀬将樹は、「自分は昼ご飯を食べずに昼休みの間じゅうずっと図書室に籠もりきり、本を読んでいる」と明かし、さらに、「それは読書が好きだから」と付け加えていた。大多数の同級生が馴染みの間柄の級友同士で誘い合わせて弁当を食べるのの傍らにあって、学級内の誰とも友好を結べていない者の孤独感は甚大となるため、昼休み中の教室にとどまること能わないという立瀬将樹の事情は山浦秀男の推し量るところとなった。そして、「昼飯時に教室から出て行くのはそこが居たたまらない場所だからではない」とかには「昼休みは、クラスメイトとの雑談に興じつつ昼ご飯を食べるという、自分の存在が他人によって是認される機会を得るために使うべきだ、との通念を弁えていない」といった雰囲気を自らに纏わせ、それを見る他人に「友人と一緒に食事をとることが叶わない立瀬将樹は人後に落ちる」との論法を働かせにくくさせ、そのような意味の言葉を自分に向かわせ辛くさせたいがために「図書館での読書をこよなく愛する人物」を装うに及んだ来歴をも山浦秀男の洞察できない限りではなかった。山浦秀男は立瀬将樹の胸中の寂しさを想像すると、クラスメイトと人並みに挨拶のある自分の立場が上手に出たように思え、愉悦を感じた。立瀬将樹が自身の巡り合わせを苦にしている度合いを多く見積もるために、山浦秀男は立瀬将樹の昼休み中の身の処し方について、「楽しくなさそう」との批評を本人に投じたのであった。山浦秀男からの蔑視に気づくと、立瀬将樹は2005年5月7日の書道の時限において、山浦秀男に墨汁を分け与えたことを思い返した。自分から、迷惑を被ったことがないどころか、かつて、自分の心づかいによって利益を得たはずの者が、その恩人を軽んずるのか、と立瀬将樹は悲嘆に暮れた。クラスで誰とも親密な仲を築けていない人物に対してならば、当人の気にしている短所をあげつらって優越感に浸るという侮辱行為を働いたとて、その人物と同調して行為者に憤りを持つ者はない、とも山浦秀男は心得ていた。山浦秀男は他人が貶まるによって得られる、自分が誇らしい地位にあるかのような気分になる快楽に味をしめ、これを確保するためには、「立瀬将樹の存在価値は絶無だ」といった論評が、主観的にも客観的にも肯定されていなければならないとの観念の元に、立瀬将樹の人甲斐の規模を矮小とみなす助けになる、立瀬将樹の醜聞へ常に目を光らせるようになった。2005年9月1日には二学期の始業式が予定された講堂に、全校生徒が集った。入学当初に教師よりなされた、この類の成員が催しが開かれる際には、生徒は、学級ごとの成員が五十音順に則る順番で連なった縦の列を横並びに整える陣形で、演壇に向かうように、との指示を念頭に置いて、立瀬将樹は、1年4組に割り当てられた、細い長方形の区画の、前に26人が体育座りできるスペースの空いた地点を見定めて腰下ろした。そして1年4組一同が講堂に会したところで、彼は背後に山浦秀男の怪訝な声を聞いた。
「ちょっとさぁー、もっと前行ってくんねぇ?」
入学したての頃には、誰とも深い仲を築けていない心許なさや、規則を破ることでどの程度罰せられるかを知らない所から学校側の制定した規律に従う方に判断を傾けた一学年の生徒も、年度の初めから数ヶ月を過ごした今では、多くが決まりに違反してでも全校集会にて気心の知れた友人と近しい位置に添うて知己同士で互いを相認識し、心安立てな交わりのある様を明瞭にし、以ってその絆を強めたい旨を抱くほどの厚かましさを身につけていた。山浦秀男が非難した立瀬将樹の咎とは、立瀬将樹が正規の場所に座したために、1年4組の大部分の男子生徒が懇ろな者同士で前後する配列で築いた、ひとつなぎの縦列の収まるスペースが狭まったことだった。山浦秀男が立瀬将樹に「前に行く」という方向性のみしか提示しなかったことが、立瀬将樹の、クラスの人間関係から疎外されている実情を承知していた証明であり、また、立瀬将樹に対してぞんざいな口のきき方をしたことも、軽蔑心の表れであるととらえて彼は陰鬱な思いをかみしめた。山浦秀男から邪魔者扱いされて、不愉快な気分になっても、立瀬将樹は、クラス内で誰とも交友を結べずにいる点を苦にして卑屈となり、「要望に諾えば相手の反感を買わない」との思考回路の元に、級友と利害を分かつ場面において自らの意向を示しがたくなっていただけに、「聴衆が仲睦まじい顔ぶれ同士で寄り合うという、壇上の人の講話を妨げる騒がしさ生む、主催者の戒めている行為を犯す者に協力する筋合いはない」と言い放つなり、山浦秀男に反駁を試みもせずに、黙して前方ににじり進んだ。2005年9月9日は、文化祭にて、1年4組の企画した出し物を運営する費用を、クラスで徴収する日であった。その日たまたま、一銭をも持ち合わせていなかった立瀬将樹は割り当て額の1000円を支払うために、昼休み全てを使って雨降りの中を家まで、置き忘れた財布を取りに戻らなければならなかった。会計係に、「家まで取りに行ってくれたの?ごめんね」と労われる立瀬将樹を目にして、山浦秀男は、「1年4組内はもとより学校全域において借金を頼めるつてもないのか」と言わんばかりの会心のほくそ笑みを浮かべた。ある時には、立瀬将樹と松永一考という生徒の顔立ちが似ている、との話題の上された輪に加わって、山浦秀男はたしなめるような口調で、立瀬将樹にぎりぎり聞こえる音量で
「一考に失礼だよォ」
と嘯いた。「エイズの実態」の冒頭から中盤にかけてが公開された会議室にても、山浦秀男は、立瀬将樹、佐藤辰巳の両名に対し、1年4組の無価値な者ランキング上位二人が吹き溜ったなという評価を下し、含み笑みを帯びていた。立瀬将樹に不運が訪れた場面に接した山浦秀男が立瀬将樹の卑小さについて確信を深めた度合いは、その頬肉を引き上げただけ増す目元の陰翳とまぶたの引き上がるほどに多くの光を取り入れる瞳のまばゆさによって測られ得た。そうして、「エイズの実態」の後編が映写され始まった会議室で、山浦秀男が満面に湛えたあざ笑いは、それまでに立瀬将樹のまみえたどれよりも、煌々たる眼光を宿していた。山浦秀男は、「立瀬将樹は疎ましい人間である」という意見が、1年4組全員の数から1を除いた数だけ本人に寄せられていると
現況を説明した。立瀬将樹は、彼を、驕慢の心を増長させるための道具としか考えていない山浦秀男や奥村進を思うと憤ろしく、同級生全員の目に醜態を晒したために自分の株が暴落していくのを想像すれば焦慮極まりなかった。それでも立瀬将樹は奥村進、山浦秀男に心が千々に乱れている証拠を与えるのを潔しとせず、席を立ちもしず、顔色に苦悶の情を表さないように力を尽くしつつ、視点をスクリーンから動かすまいとしていた。立瀬将樹の人相の険しくなっていくのを見かねた松永一考が、それまでに所属していた部族の者たちに背後から、「何だ、どうした」と問われるのに「ちょっと、ちょっと(座る場所を変えてみようかな)」と答えながら、先週、佐藤辰巳が腰を下ろした椅子へと出向いた。松永一考が、「鑑賞会をクラスメイトと関係を深める場とすべきとは限らない、との価値観に賛同したように見せるによって、立瀬将樹の孤独感を和らげたい」という良識を働かせなければならなかったことが、自分が居たたまらない心境に陥っているのを誰にも読み取られていた証拠の一つであることを立瀬将樹は意識した。それからややあって、会議室の北西あたりに座っていた津村いおりが宇部友子に声をかけた。
「ねぇ、一考のとこ行こうよ」
そうして示し合わせた二人は、通り道に並ぶパイプ椅子の一つ一つの脚に上履きを引っかけ、特に立瀬将樹の座している椅子は蹴り揺すリまでして、ガたガた音を鳴らしながら、鼻息荒く、松永一考の両わきの席に駆け込み、松永一考に左右から、「いっこう♡、イッコー♡」と甘やかにささやいた。
「あ~ぁ、やっぱりなぁ」
と奥村進が溜飲を下げ、山浦秀男の眼は一層輝きを増した。立瀬将樹は、奥村進の言わんとするところを、「やっぱり有徳の者、孤ならず、必ず隣あり、なんだなぁ」「やっぱり桃李言わざれども自ずから下に道を通ず、なんだなぁ」の二格言に要約した。同じ群れから離れた立場に置かれても、自ら求めずとも慕い追ってくる者のいる松永一考の人望の厚さと比較すると、捨て置かれたきりの自身の人脈の乏しさが際立って意識され、立瀬将樹は自己否定の度を深めた、と山浦秀男は立瀬将樹の心理を推定した。しかし、本人の方では、「徳の豊かさ対決で立瀬将樹は松永一考に大敗を喫した」との風評がまことしやかに広まったによって、山浦秀男や奥村進が慢心を強めたことは痛恨の至りで、他の同級生の胸中でも、立瀬将樹への尊敬度がさらに皆無に近づいたのに思いを巡らすと気もそぞろではあったが、自らと引き比べて松永一考を妬ましく思うことはしなかった。松永一考をこよなく慕っていたことを理由に、津村いおりや宇部友子は、松永一考のかたわらの席に移ったのではなくて、奥村進や山浦秀男が抱くのとは異なる心理から、彼女らもまた、立瀬将樹の自信喪失を望んでおり、「立瀬将樹が松永一考に人気の多さ勝負で敗れた」との風聞をさも真実らしく伝えるつもりで、松永一考にすり寄った風に見せた、という見解は立瀬将樹にとって無理ではなかった。彼はこれまでに、津村いおりや宇部友子が立瀬将樹を観察し、新たに目にとまった特徴を、他の女友達に発表しているのを幾度か察知していた。津村いおりはある体育の時限の直前の休み時間に、着替え中の立瀬将樹を一しきり眺めやった後に、宇部友子を含む女生徒数人と、「お腹の所だけくびれてる・・・」「鎖骨の溝が・・・」という語の入り混じった会話を展開した。他日には、立瀬将樹書き物に集中する毎に、上体を全て使って机の天板に影をさす姿勢になっていくの発見した津村いおりは、これを、「前のめってる!!」なる言辞で表現し、それを聞いた宇部友子や、その他の女生徒の間では、「前のめってるっておかしくない?」「前のめりにになってるじゃない?」「でもつんのめってるって言うよね?」としばし日本語学の論争が繰り広げられた。立瀬将樹が新調の服を着て学校に現れた日には、津村いおりと宇部友子の二人は決まって、「配色が子供っぽくない?」「フードの裏がチェックでシック」などと、その目に受けた印象を、ひそひそと語り合った。津村いおりや宇部友子の自分への関心の深さを窺い知り、両名の抱く好意に思い至っていた立瀬将樹にしてみれば、恋慕している相手が自分の手の届く範囲にあると思い做したいがために、その人を蔑む材料を探したがる心理から、津村いおりと宇部友子は、立瀬将樹に「松永一考との人格の豊かさ比べで負けた」と信じ込ませるようにはからうに及んだ、との解釈が真実であると思われた。
立瀬将樹は2005年11月11日の保健の授業での、佐藤辰巳の裏切りと、奥村進の歓声と、松永一考の善意と、津村いおりや宇部友子の愛と、山浦秀男の満面のほくそ笑みとを思い返して地団駄を踏む折には必ず、城伸助の微笑をも、同じ日にまみえた景色であったかのごとくに、合わせて思い起こした。立瀬将樹は、城伸助が「フリーです」と口にした時に浮かべた微笑みについて、「生徒達にとっては友人同士の親しみを深める機会を得られて喜ばしいはずの自由席ルールを発布するにあたって、見返りとしての立瀬将樹の微笑みを待ち構える意図が働き、口角が上がった」、「立瀬将樹が席順の指定の有無を問うた瞬間に、自分が生徒から指示を仰がれる立場にあることが明確化され、以って、教師としてのアイデンティティの補強を得て、喜びを感じた」、「授業中やホームルームでおしゃべりしたり、校内の清掃を怠けたりせず、学科の成績も優秀で、エイズの病理について造詣を深める催しに一番乗りで駆けつけるほどの学習意欲のある品行方正な立瀬将樹に対して好印象を抱いていて、これと接するに際して人当たりが柔らかくなった」の三つの心証のいずれか、あるいは全てより表出せられた物であると見極め、さらに、この三了見にことごとく唾棄した。主催者側の席順を指定しないという判断が元で、「エイズの実態」が上映された会議室は、山浦秀男や奥村進はスクリーンに片時も目をくれずに連帯して立瀬将樹を嘲りのめし、立瀬将樹は増大する孤独感を抱えて書き物もままならず、津村いおりと宇部友子は湧き溢れる情欲に溺れ、松永一考は、立瀬将樹の辛酸を慮っては哀憐の情に気を取られ、その他の1年4組の生徒も、「立瀬将樹の存在価値」との議題について多かれ少なかれ思案を余儀なくされる、といった、エイズの病理を熟知するための映画の鑑賞会としての在り方とは隔たり果てた様相を呈した。生徒に学問を授ける責務を十全に果たせなかったどころか、山浦秀男や奥村進といった、自分が興がるために他人の人格を否定するような人間性の持ち主に増長する機会を与え、立瀬将樹に真面目に学習に取り組む意欲を持ったことが、自らに災いをもたらしたという体験を味あわせ、以って公序良俗の乱れを励ました仕儀を念頭に置けば、城伸助の「教職をまともにこなしている」との自負が客観的であると認められるはずがない、とが立瀬将樹の謂いだった。また、その不配慮さを呪いこそすれ立瀬将樹が城伸助に敬慕のまなざしを向けることは彼の在校中に一瞬間たりとも無かった。
【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その5
ただ、長い間目障りであったモニュメントを次々に減らせたのはいいことで、これまで積み重ねてきた作家になるための努力が思わず役に立ったのも嬉しいことで、一遍を書き上げるごとに達成感もありましたが、怨恨を描写する作業の最中には、寂しさの情を描写していた時と比べてしらけた気分が混ざっていました。 “【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その5” の続きを読む
【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その1
〈第八章~隠された古文書~〉
転機が訪れたのは、2010年の初頭でした。
社会生活に戻れないまま月日が過ぎてゆき、持て余した時間の内に、活発な自分への憧れも、思い通りにならない身体への歯がゆさも強まる一方でした。
自由を最も制約する枷は、やはり不眠の悩みでした。私は、その頃にもいまだに、どうすれば毎晩健全な眠りを摂ることができる身体を手に入れられるのかということばかり思案していて、そのたびに葛藤に渦巻かれてしまいました。
私は、早い段階から、何度も「長谷部先生に枕の上で考え事を始める間もなく眠れるようになる強い薬を出してもらおうかな・・・・」と、心を傾けては、そのたびに「でも薬害が・・・・。肝臓への負担が・・・・。Bのせいで肝臓ガンにかかったら・・・」という懸念によって、思いとどまらされていました。
一方、薬を使わない前提の上での不眠解消法をインターネットで探ったところ、その頃でも就寝前に座禅を組む習慣を持っていたことも関係していましたが、座禅よりもさらに高度な呼吸法であるという丹田呼吸法なるものを知り、その呼吸法を習熟しようかな、と思い立ちました。丹田呼吸は武道の修練にも役立つと紹介されていたことも、その意欲に力を添えました。
しかし、丹田呼吸法を学べる道場は、ほとんど東京23区内にしかないそうなのでした。
最寄り駅は使いたくない!自転車で30分かけて3つ隣の駅まで行ってから電車に乗ろうかな、いや、面倒だし、元同級生との遭遇率はあまり変わらないだろう・・・。バイクの免許とろうかな・・・。いや、近隣の教習所には、元同級生がいるかも・・・。それに、車の運転は事故が怖い・・・。父親が平日、朝6時に自動車で浦和まで出勤しているから、それに乗っけてもらおうかな・・・・。でも7時に着いた後に、道場が開くまでの時間つぶしどうしよう・・・。第一、父親とあんまり話したくない・・・。道場の近くに下宿・・・?いや、家賃が何万円もかかるし、丹田呼吸法のためだと説明しても両親が家賃を負担してくれるどうかわからない・・・。家賃の分バイトをしようにも、毎晩の睡眠が安定してないのにちゃんと約束どおりの時刻に出勤できるか自信ないし、バイト先の誰かにまた身体のどこかをしつこく触られるかも知れない・・・。アパートの隣の住人が、やたらに物音を立てる人で、その騒音へのストレスが幻聴に変わってしまうかも知れない。それにBの不法行為のせいで、通常より多く支払わされる、水代と光熱費の明細票や石鹸代のレシートを見るのがいやだ・・・。
東北には丹田呼吸の道場は、仙台に一軒だけあるみたい・・・。福島から通うと・・・。新幹線使って一回往復10000円かあ・・・・。・・・・・・。
私は、日を追ってセンチメンタルを深めてゆきました。もうずっと長い間友達との楽しい思い出を作れていない自分の人生に、敵ばかりが思い浮かぶ人生に、枷を何度はずしても、また新たな枷が現れる人生に、希望は皆無となりつつありました。この頃の私はしばしば夜中に小学生の頃に住んでいた町の公園に自転車で出かけて、木々の間を歩き、遊具にもたれかかりました。
私は、ノスタルジーの情にひたることによって、自分の現況から目をそむけていたのです。
あるいは私は、深夜の汚れの少ない涼しい空気の匂いを嗅ぎました。それによって少しすっきりした気分を感じて、気を紛らわせつつ、主に日中外を出歩く普通の人には味わえないであろうそのちょっとした気分の良さを、自分の中で、大きな気分の良さであるかのように言い聞かせて、夜だけの楽しみを知っている自分を演出して、自分の時間の使い方が一般の人と劣らないと思い込もうとしていたのです。
そうして、私は一月の半ばを迎えました。
自室で、いつものようにインターネットの面白いページを探していると、2ちゃんねるのまとめサイトのあるスレッドが目に留まり、「舌の置き場所を意識しだすと、もどかしい」とか「足の指同士のしめり気含んだつくかつかないかの感覚を意識しだすと、気持ち悪くて切り落としたくなる」など、普段の生活の中で気にし始めると止まらなくなる些細な身体感覚を挙げて共感を得るというお題のスレッドがあり、私も興味を持って画面をスクロールさせていました。そうしてふと、その中の書き込みに「強迫性障害の治療なら『森田療法』がオススメ」とあるのが目に留まりました。
『森田療法:森田療法とは、精神医学博士・森田正馬(1874~1938)が大正時代に創始した日本発祥の心理療法です。対人恐怖症、強迫性障害、パニック障害、特定の事物への恐怖症などの神経質症(現在では不安障害と言われます)に有効とされています。薬をなるべく用いず、患者を何もない個室のベッドに横にさせたまま、食事と入浴とトイレ以外の一切の行動をせずに、一週間過ごしてもらい、人間が本来持っている行動したい欲求を活性化させ、その後の充実した生活につなげる絶対臥褥を特徴としています。
第一期 絶対臥褥期 (五日から一週間)
第二期 起床、散歩、草花や蟻の観察、日記の記述など、病院内での軽作業を許す (三日から一週間)
第三期 園芸、薪割り、手芸、袋張り、掃除、ウサギや鶏の世話、薪割り、風呂焚き、畑仕事、他の患者との遊戯など重い作業も行う。(一週間以上)
第四期 社会復帰への準備期間。外出訓練など。事情によっては、病院から通勤、通学を再開させることもある。
・・・・・・』
検索し始めた最初の印象は「自分には適さない」でした。「無気力な、ニートの人向けの療法だな・・・・。自分は、無職は無職でも、事情があって外に出れないんだから関係ないよ。プー太郎は中途半端に気晴らしが出来る内は社会に出ないから、完全に退屈きわまる思いをさせれば動き出すだろうという、単純な真逆の発想をしただけの民間療法に近いものだな」と軽蔑心すら覚えました。
ところが、続けてページをめくっている内に、私は「メンタルヘルス岡本記念財団」という公益財団法人のホームページに行き当たりました。そこには、森田正馬の弟子の高良武久という方の著作を転載したコンテンツがあり、私はすぐさまその文面に魂を奪われました。
(このとき私が発見したページはこちらになります。メンタルヘルス岡本記念財団のホームページは、ありがたいことに今日までも続けて運営され、コンテンツもどんどん拡充されています。 不眠への恐怖、パニック障害、潔癖症、騒音恐怖、劣等感、対人恐怖症その他不安障害に悩んでいる方には、絶対におすすめのホームページです。)
【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その2
この記載は、今まで読んだどの小説よりも最も強い力で、最も長時間私の目を引き付けた文章であったし、それまでに触れたどの哲学書よりも劇的に、読了後の私の行動を変えさせた書き物でした。
特に不眠恐怖の項目は、一言一句が漏れなく身に沁み、読了直後から、私は不眠の悩みを克服できる自信に満ちていました。
実際の経過も言及の通りを辿り、私は、古の予言書に道を示されたような気分でした。 “【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その2” の続きを読む
【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その3
森田療法を学んだことによって、不眠および多夢の悩みは全快し「伝播毒」の正体をつかむことができ、それから解放された未来の自分のビジョンも思い浮かべられるようになりました。 “【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その3” の続きを読む
【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その4
それから私は、自分が該当するマイノリティの自助グループに参加しようと決心しました。2009年の4月に肉付きの面を取り外せたあたりにも、「強迫性障害の患者会や不登校・引きこもり当事者のフリースペースやいじめ被害者の集会に足を運ぼうかな」と腹案に入れたことがありました。しかし、高校時代の青春を手に入れられなかったことや、高校を卒業した後にも、社会のメインストリームに乗れていないことを赤の他人にさらけ出すのはまだ恥ずかしく、さらに、社会的にネガティブなイメージの当事者団体に在籍するのも恥ずかしいことだと感じて、案をすぐに打ち消してしまっていました。
ところが、森田療法を知り、心の動き方のパターンを勉強する内に、自分のとってきた行動がすべて正常な心理の成分の総括であったことに気がついたのです。他の同年代の誰でも、生まれてから私と同じ境遇を辿れば、同じ心理を起こし、同じ行動をとるものだ、と思えるようになったのです。「学校時代の不幸があまりに重ければ、誰でも引きこもるものだ」と開き直れるようになり、強がりを一段と薄めることができたのです。「自分が持つ心理は、他人にもあり、他人の持つ心理は、自分にもある」ということを知ることは、森田療法の重要な学びとして文献中で幾度も触れられていることでした。森田先生は、昭和初期の当時にも「形外会」という神経質症経験者同士が自分の症状を告白しあう懇話会を作られたのだそうです。
『【差別観のとらわれから脱する】
神経質症状に悩む人の多くは、自分ほど苦しいものはない、こんな症状を持っている者はほかにあるまいと思い込んでいる。だから、他人の症状を聞いてもいっこうに同情しない。赤面恐怖症の人は不潔恐怖の人をおかしがり、不潔恐怖の人は不眠症ぐらいなんでもないのにと思う。(中略)入院中の患者たちははじめのうち自己中心的になっていて、自分だけが特別だと思う気持ちが強いので、いっそう自分を惨めに感じ、他人に対して同情することも少ないのである。(中略)私がウサギの箱を掃除しているのを見たある患者が、日誌に「先生は汚いことを平気でやられる」と書いていたが、私は平気ではなくイヤイヤながらやったのである、冬の寒い日、病院の前の妙正寺川で染物屋さんが、布をさらしているのを見た一人の患者が、「あの人たちは寒いのに平気で水仕事をしている。自分にはとてもできない」と日誌に書いてあった。このように自分に辛い事は人にもつらいということがわからないので、同情心も湧かないのである、正常人は「あの人たちは職業とはいいながら、つらい水仕事をしている。感心なものだ」と思う。
人は平気で大勢の人の前で話をするが、自分はあがってしまう、人は楽に勉強しているが、自分は苦しい。人はいつもいい気分でいるが自分はふさぎやすいなど、自分だけが特別だという考え方をすることを、「差別観にとらわれる」というのである。こうなるといっそう劣等感が強くなる、だから他の患者がなおるのを見ても、あれは軽いからなおるので、自分のは違うと思い、他人のことを参考にしようとしない。症状が変わっていても根本は同じだということにも気がつきにくいのである。』1
初めて参加した引きこもりの人向けフリースペースは、ある地方都市の公民館の一室に開かれていました。私はその2、3日前に、都心部の防犯ショップまで出かけて、ちょっと大きい変なペン型の催涙スプレー二本を購入しました。他人と数時間同じ空間に過ごすイベントにおいて、参加者の誰かが何かの拍子に、私の身体の一部分を面白がってしつこく触りたい気分になる可能性についての想定が、その時点では0%ではなかったのです。しかし、会場に着いてほどなく、私は、袖に仕込んだ暗器のことは忘れてしまいました。
会場は中央に大きな卓がある大きな和室で、私はイベントが始まる定刻に入室して、最初の集まりは数人でしたが、定刻を過ぎてからも、周囲の空気が実体化するように、しれっと人が増えてゆき、後には、中学生から中年の方まで、20人近くの集まりとなり、まるで公民館の休憩室に過ごしているようでした。他の来場者の方との話題は尽きることがありませんでした、学校時代の同級生を見返すとか、手っ取り早く就職したことにするために、小説や漫画やRPGなどの創作活動に取り組んだことや、両親との仲がギクシャクしていることや、深夜に外を歩き回る習慣のことや、2ちゃんまとめサイトで権力者が失敗するのを見るのが楽しいことや、ポケットマネーが減るのが惜しくて、新しいゲームを買えずに、お気に入りのレトロゲームをやりこんでいることなど、参加者の誰とでも、大なり小なり共通の経験があることが多く、それにみんな、人が話している時には話し終えるまで待ってくれていて、テンポよくノリ良くテンションを上げて笑いながらしゃべることを、お互いに誰も求めていませんでした。また、引きこもり期間中に強迫性障害にかかった経験のことを、私以外に複数の人が打ち明けてくれました。私は、
「曝露反応妨害法って響きがかっこいいですよね。なんか、錬金術の技法みたい」
と言いました。
同じ悩みを持つ他者と体験を打ち明けあうことは、単に嬉しいとか、勉強になったとか、安心できるといった言葉の表現によらない、なにか大きな力で、善導を与えてくれるもののようでした。
どこかの自助グループに参加して新たな知り合いを作ると、その後しばらくの期間、なぜか物理的な意味で強迫観念にはとらわれにくくなったのです。経験則によると、参加してから約二週間の間、脳裏には、「こないだの会合で、自分の言ったあのギャグは、もっとこうすれば面白かったんじゃないかな」とか、「このTV番組やインターネットの情報は、あの人が興味を持ちそうな内容だな」といった、対外関係に向かった思索が漂っていて、視界の中のBに関するものとそうでないものを色分けする心を置き去りにしやすくできるし、皮膚に新たにケチがついても、そのことから意識を離す時間を短くできるようでした。
自助グループで作った仲間があったればこそ、私は嫌なオブジェクトを色分けする強迫観念や、皮膚にケチがつくことへの恐れや、すでに定着してしまった伝播毒を克服できたと思います。
【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その5
また私は、一人の、会いに行きたい個人を思い浮かべました。 “【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その5” の続きを読む
最終章 ~螺旋の路地~
〈最終章 ~螺旋の路地~〉
私はようやく全ての枷を取りはずすことができました。本家毒も、伝播毒も、肉付きの面も、周囲のオブジェクトに憑依した侮辱の記憶も、不眠恐怖も、騒音恐怖も、一人ぼっちの孤独感も、読書習慣についてのみじめさのイメージも、精神医療に対する極端なマイナスイメージも、全てはおぼろげに思い出される夢となり果てたのです。
睡眠導入剤の減薬が進んでいく間に、私は長谷部先生にある疑問を問いただしました。
「先生、Bにしつこく触れられた部分に不快感が生じたという現象は、強迫性障害に含まれるのですか?」
初診時の長谷部先生の見立てではそのように取れる説明であったし、実際、本家毒は強迫性障害の治療法である曝露反応妨害法によって快方にむかった訳でしたが、強迫性障害という病への見聞を広めるほど、本家毒はその範疇から浮いている、と感じたのでした。
「ああ、確かにあの時はわかりやすくそう言いましたが、その症状は強迫性障害とはちょっと違いますね。」
「では、なんという病名がつくのですか?」
「えーそうですね、身体表現性障害・・・・・・と言ったらいいのか・・・。転換症状・・・とも違うし・・・、幻触ではないし・・・・。病名と言われると、ちょっとわからないです」
【身体表現性障害】:医学的に説明できる器質的な異常が見当たらないにもかかわらず、患者が身体関連の執拗な訴えをする状態像を総称した症候群名。
【転換症状】:無意識領域下に抑圧されたストレスや葛藤が、知覚あるいは随意運動系の身体症状に変換された反応である。その症状は一般身体疾患によっては十分に説明できない。現在では疾患単位ではなく、転換反応といった反応の仕方としてみることが主である。複雑多彩な身体症状を示し、症状の発生や悪化には、ストレスや葛藤といった心理的要因が必ず絡んでおり、症状は意図的に作り出されていないということが特徴である。患者は症状の発生がまず葛藤の解決法(一次疾病利得)となり、また症状を武器にして周囲を動かす二次的疾病利得の特徴をみることが多い。転換反応はヒステリー反応の一つとして分類される。ヒステリー反応には転換反応のほかに精神症状に変換される反応(解離反応)がある。これらは別個に発現することが多いが、合併することもある。
【転換性障害の症状】四肢の運動麻痺、失立、失歩、失声、嚥下困難、書字困難、痙攣、後弓反張異常運動(舞踏病あるいはアテトーデ様感覚障害ヒステリー盲、ヒステリー聾、視野狭窄、難聴、卵巣痛、乳房痛、限局性頭痛・腰痛、下肢痛、痛覚・触覚・味覚・臭覚の脱失あるいは過敏、ヒステリー球その他1
【幻触】:幻視、幻聴、幻臭、幻味と並ぶ幻覚症状の一種。
「身体表現性障害には伝播毒のことも含まれることになるんですか?」
「ええ、そう言っていいと思います」
「転換症状の説明は適合しているかもと思ったんですが、違うんですか?」
「はい・・・。転換症状というと、患者さんに悩みが原因で身体的症状が起こってると説明すると、納得してもらえて苦痛はなくなっていくことが多いんですよ。心の底に病気になって同情してもらいたいという心理があるんだと思います。立瀬さんのように、自分で原因がわかってて症状が四年続いた、というのはあまり聞かないですね」
「ではどうして、先生は曝露反応妨害法が有効だとわかったんですか?」
と尋ねると、
「精神療法には、向精神薬を使って統合失調症の人の幻覚を消すこととか、内因性のうつ病の人の抑うつを和らげることとか、薬を使うしかない場合と、患者さんに社会生活に適応できるようにずぶとくなってもらうしかない場合の二種類しかないんですよ」
とのことでした。
上記のように、精神医学の現場では「不快だと思っている人物に触れられることによって皮膚に不快感が生じる現象が存在する」ことは、特に有名ではないようでした。いじめ後遺症の自助グループや、強迫性障害の患者会で、私の経験談を打ち明ける時の「そいつに触れられた部分に不快感が生じていたのです」のくだりでは、みんな目を見開いて驚くものでした。それに、人間生活に入るようになってから観察をしてみると「他人に急に触られるのはイヤ」と言う人は結構いるようでした。
そんな現象が世の中にあることを発表した者の責任として、本家毒の正体について私なりの結論を述べておきたいと思います。
本家毒は、皮膚の記憶だったのだと思います。私は、視覚的、嗅覚的、聴覚的、行動的オブジェクトに触れることによって記憶を蘇らせる自分の特性について記して来ましたが、触覚もまたその例に漏れなかった、ということだと思います。生物の五官の内で皮膚感覚の働きは生存確率上昇のための情報源としては地味なようですが、ちゃんと活躍しているということだと思います。
さて私は、2010年の6月中旬になると、福島の祖母宅に出かけ、前年抑えつけられていた反動によって暴走する果実酒欲の赴くままに、お酒を自ら買えるようになった年齢を携えて酒屋を回り、瓶の洗浄を手早く行えるようになったことも手伝って、米焼酎、芋焼酎、黒糖焼酎、粕取り焼酎、栗焼酎、泡盛、ジン、ラム、ウォッカ、ウイスキー、ジョージアムーン、アクアビット、ブランデー、ポートワイン、カルヴァドス、スピリタス、テキーラ、グラッパ、アラック、カシャッサ、白酒、汾酒、茅台酒、と東西南北の液面合計100リットルに梅を漬け込み、さらに盛夏には100個以上の桃と桃仁酒を消化器官に塗りこめて、ようやく私は「福島は楽しいものである」という理を取り戻しました。
社会復帰の方面のことにも進展があり、大学進学の計画は立ち消えとなりました。自分の夢のために大学進学は大した意味がないことに気づいたのです。自分の心の声に耳を傾けると、私の適正はどうも果物に触る仕事であるようで、私は将来の職業として果物農家となることを見定めました。ただ、その進路なら30代に入っても就けると思われましたので、若い間は都会に暮らして、人との思い出を沢山つくろうと考えました。
私は、職業訓練校の二ヶ月間の講習でヘルパー二級の資格を取り、新宿区内の訪問介護の仕事に就き、一人暮らしをすることにしました。訪問介護の仕事を選んだのは新宿の街を駆け回れるからでした。後に思い出して懐かしめるような光景をたくさん目に入れたかったのです。
そうして訪問介護の仕事はアルバイトでした。本業としては、私は新宿二丁目のゲイバーの店子をやりたかったのです。
〈最終章 ~螺旋の路地~〉 完
B毒の汚染 (了)