この記載は、今まで読んだどの小説よりも最も強い力で、最も長時間私の目を引き付けた文章であったし、それまでに触れたどの哲学書よりも劇的に、読了後の私の行動を変えさせた書き物でした。
特に不眠恐怖の項目は、一言一句が漏れなく身に沁み、読了直後から、私は不眠の悩みを克服できる自信に満ちていました。
実際の経過も言及の通りを辿り、私は、古の予言書に道を示されたような気分でした。
そのほかにも、私がこれまでただ惑わされるだけであった心理の法則についての解明が、いくつもちりばめられていました。
私は「メンタルヘルス岡本記念財団」の記事一通り読み通した後にも、そのほかの検索結果のページを次々にめくり、また、疲労を恐れず運動できるようになった身体で、自転車に乗ってほうぼうの書店を廻って、森田正馬本人や森田療法研究家の著作を買い集め、すっかりその教えに心服しました。
『【精神交互作用】
ある感覚に対して、注意を集中すれば、その感覚は鋭敏となり、この感覚過敏は、さらにますます注意をその方に固着させ、この感覚と注意があいまって交互に作用して、その感覚をますます強大にするという精神過程。
精神交互作用の発展によって異物化される身体感覚は多岐にわたり、頭重、立ちくらみ、精神がぼんやりする感じ、心悸高進、注意散乱、胃部膨満感、鼻の先が常にちらちら見えるのが気になる、など思いもよらないような症状が主訴されることがある。
しかし、その主訴について、性状、程度などを詳細に、根本的に問診すると、具体的ではない、あいまいな苦痛の表現で終わることが多く、それでいて、本当の器質的な病には似ず月日が過ぎても苦痛の度合いが悪化しない症状を、数年来もくどくどと言い続けるものである。』
『【ヒポコンドリー性基調】
ヒポコンドリーとは、もともとは古代ギリシャの医学用語。ヒポは「下」コンドリーは「肋軟骨」。組み合わせて、みぞおちの下部位を意味していて、人間が、心配、不安のときにその辺りに自然に覚える異常感不快感のことを指す。ヒポコンドリー性基調とは、その不快感をことさらに内省して、精神交互作用によって、不快感の程度を増大させる傾向のこと。強迫観念に悩む人は、必ずヒポコンドリー性基調を有している。』
『【生の欲望と死の恐怖は表裏一体】
神経質症状の根源には強い死への恐怖が存在する。
人は誰でも、人によく思われたい、よりよく生きたい、健康でいたい、成長したい、という向上心・発展意欲=生の欲望を持っている。しかし、生の欲望を持つことは同時に、死にたくない、人によく思われなかったらどうしよう、偉くなれなかったらどうしよう、という死の恐怖を持つことを意味していて、両者は表裏一体のものである。神経症の人は、自然な心の一部である死の恐怖だけを一生懸命に排除しようとして、当然失敗し、葛藤によってさらに死の恐怖を増大させている。
神経質症が、自我の目覚める青年期に発現されることが多いのはこのためである。神経質症者が、死の恐怖にとらわれないための最善の状態は、精神交互作用と思想の矛盾に気を払いながら、もし症状がなければ自分はこうなりたい、という感性と欲求の通りに、建設的な活動に取り組むことである。神経症状が悪化して死んでしまうということは決してない。
入院森田療法における絶対臥褥の最も主な意義とは、完全無為な生活が人間の本性に悖ることだという気づきを与え、生の欲望を最大限高潮させることにある。そうして、臥褥の明けた第一作業期において個室外から出た後も、すぐには他の患者との談話、遊戯、ふところ手、口笛など気紛らしを許さず、落ち葉拾い、雑草ぬき、外界の観察、日記書きなど、なるべく筋肉を労しない動作のみをさせ、膨張した運動作業欲が保持されるように促す。その後は、次第次第に、楊枝けずり、ほうきがけ、ぞうきんがけといった軽作業に始まって、次第次第に飯炊き、風呂焚き、薪割り、浴衣縫い、のこ引き、畑仕事、仕事の合間合間の読書、などの重作業を許す。後期には患者が「いそがしくて病む暇がない」と評するほどの、一日中のべつに何かしている生活を促すのである。
神経質者がひとたび、神経質症状がいかに苦痛でも、建設的な作業には差し支えないことを知り、自分の予想以上の成果があげられる喜びを知った後には、その生来の、強い生の欲望の赴くままに突進し、むしろ普通の人よりも精力的な事業者となるのである。』
『【思想の矛盾】
神経質症者の口からとかく「こうなって欲しいと考えれば考えるほどなって欲しくない事態が起こる」という内容が語られること。
心臓神経症の人が、最初に軽い動悸がしたのを、落ち着かせよう落ち着かせようと願望して、その焦りによってますます心臓を高鳴らせてしまうことや、多夢恐怖の人が、好む好まざるとによらず、夢の記銘を心がければ、多く夢を見るものであるのを知らぬことや、便秘恐怖の人が、便秘を恐れるあまりに流動食ばかりを摂り、却って廃用症候群を招いてしまうことなど本来ありふれの生理への無理解に因する物であったり、「自分は強迫観念を気にしていない」「自分は健康だ」「人前で顔が赤くなっても少しも恥ずかしくない」「いつでも悩みのない気分でいたい」と、希望的な言い聞かせによって、かえって自分の欲求の強さを高め、本心の不安をより増悪させる、感情と事実の乖離過程に因する物であったり、さまざま背景からそうした述懐が異口同音に吐露される。我々は決して心の中で、思い通りの感情を作ることができるものではない、ということを知ることが重要である。書斎で原稿を書いている私が、たった今悲しみや嬉しさの情を起こせと言われても、それは不可能なのは自明のことであるが、しかしもし突然息子の病気の電話がかかってくれば、たちまち心配するに違いない。このように、感情は、周囲の状況によって、一瞬一瞬、自然に千変万化していくものである。そのことから、強迫観念から集中を脱した精神的状態になるためのコツとして言えるのは、外界の事情・境遇を選択することである。強迫観念はそのままに、環境を自己実現のための建設的な行動ができるように変えれば、初めは未練も残ろうが、次第次第に感情は目的達成のための勘案の方面へ自然に移っていき、仕事の成果が手に入るばかりか、煩悶のほうも意識されなくなるものである。』