【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その5

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また私は、一人の、会いに行きたい個人を思い浮かべました。「ある行動を取ると関連する映像が蘇る」という私の特性は、悪い思い出ばかりを呼び覚ますのではありませんでした。人前で無愛想な表情しかしなかったのに、思わず親切にしてもらえた時に使われていた動作を、後に自分で取り直すと、ほほえましいとか嬉しいとかいう気持ちになることもあったのでした。
高校三年生時の担任だった先生は、私の孤独な実情を、大まか察してくれていたのだと思いますが、私の周囲のオブジェクトに、良い思い出しか植えつけなかった先生でした。私は高校在学中に、自宅とその先生の住む一軒家が500メートルの距離にあることを偶然に知っていたのです。私はその先生にこれまでの事情を話し、アゴの先端から周囲約2cmにアゴの前側の膨らんだところを足した肌の部分と、右の二の腕の横側、上腕二頭筋と三角筋の分かれ目の三角筋寄りの位置の10円玉大の肌の部分に、先生の肌を押し当ててもらうことをお願いしました。
私は、曝露反応妨害法によって、皮膚の不快感自体を消すことができ、森田療法によって伝播毒の正体がつかめても、中学校の三年生を送る会の場でBに執拗に触られた部分への不潔感はなおも拭い去れなかったのです。「この皮膚はBの悪い成分で汚染されている」というイメージは、B毒のことを誰にも相談できなかった4年間の内に、あまりに奥深く定着してしまっていたのです。Bの悪いイメージが植えつけられた皮膚を、高校の先生の良いイメージで浄化しようという計画でした。そのような発想は、強迫性障害治療のセオリーで言えば「他人の巻き込み」という強迫行為が悪化した人にありがちな思考パターンに該当するものらしく、精神科医の誰も賛成しないことだったと思います。森田療法でも「人に迷惑をかけなくなったことが、神経質症が快方に向かった指標である」と言われていたそうです。「自分の強迫症状を他人に打ち明けることについては『形外会』に於いて、他の参加者に同じ病を持つ仲間がいるということを知らせるために自分の体験した症状を告白することは良いが、強迫神経症のことで同情を買ってもらうための愚痴は厳に慎むべき」なのだそうです。

ただ、私は、「それはそうなんだけど・・・。B毒の発祥地に新しいイベントを起こさなければどうしても触れられない」だったのです。
引きこもり自助グループでも、強迫性障害の自助グループでも、新たに連絡先を交換できた人はいて、私にも味方が増えて来ていた時期でしたが、計画に協力してもらうのに高校時代の先生を選んだのは、やはり窮地の時に受けた恩こそ心に深く染みたためであり、何より、私が先生に恋していたからでした。
高校の先生は、突然の来訪と相談内容に驚きましたが、申し出は受けてもらえました。
「僕は先生に、抗毒血清を打って欲しいんです」
「そういう言い方は、僕は嫌だな。僕は薬じゃないから」
先生に計画を打ち明けた初めには、先生に「三年生を送る会」のあったのと同じ二時間、患部を押さえ続けて欲しいと言いましたが「それでは長すぎる」ということで40分間に縮めることになりました。実行の日、私と先生は並んで座り、右隣の先生は右手で私のアゴを包み込み、私は右の二の腕をはだけ、先生にも左の二の腕をはだけてもらい、互いに二の腕をくっつけ合わせて、この体勢で40分を過ごしました。
私の希望通り、計画は完了しましたが、それでもすぐには勇気が出ずなかなか患部に触れられるようにはなりませんでした。しかし、先生に「接触の時間を追加してほしい」とかけ合ったところ「私を信用していないならこれ以上はムダ」と怒られました。それから私は、手を洗いたい時があっても、高校の先生を思い出して我慢するように努め、不潔感に打ち克つことができるようになって行きました。やがて私はとうとう完全に本来の皮膚を取り戻し、その後再発を見ませんでした。

第八章~隠された古文書~ 完

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