【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その1

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〈第五章~忘れられた坑道~〉

ローカル線で福島駅に着いてからは大宮行きの新幹線へ。私の大好きだった景色は私から離れていきました。
這う這うの態で電車を乗り継ぎ、脳裏に浮かぶ言葉はただ「橋谷メンタルクリニックの長谷部先生」でした。私には、埼玉に唯一の希望がありました。

2006年4月11日のことでした。もうそろそろ支度しないと遅刻してしまう午前8時20分という時刻に、私はとうに目覚めていましたが母親が起こしに来て、私は母親に「もう学校には行きたくない、行かない」と初めて表明したのでした。
「なんで?」と聞かれるのに、私は「苦しいから」と答えました。
母親は「それじゃあんた今までずいぶん一人で辛かったんだねぇ」と言って、急な事態に身の処し方に困った時間をせめて無駄にしないためか、辺りのゴミをゴミ箱に入れていましたが、その内立ち去りました。
私は学校で、昼休みの同級生たちがなじみの級友同士で机を合わせて弁当を食べている光景を横目にするなど「高校に通っているならば友達を作って同年代の者に己の存在が承認される喜びを得るべきだ」という価値観への肯定に触れるたびに、胃の裏の少し下から溶岩のような熱さがせり上がり、圧迫を受けて上半身の内圧が高まるのを感じ、肺が押し込められて息苦しく、心臓が早鐘を打ち、頬が火照って張り詰める、という感覚に苦しめられました。それはつまり、同い年の青年の大多数の人にとって標準である利益を、自分だけが逸していることへの悲哀と焦燥という感覚でした。
前にも述べたとおり、私の肉付きの面は、人間生活の一般的な価値観を理解していないふりをするによって、同級生と目が合った時にその人の顔が、ほくそ笑むとか不憫がるなど、私が陥った状態の不幸さ加減を積極的に支持する表情に変わる可能性を下げるための防具であったのでした。

すなわち私は、学校では他人が「立瀬は孤独を苦にしている」という印象を持つのを防ぐために、肉付きの面をつけていたわけですが、もっと詳しく言うなら、実は私は、自分自身にすら、「自分は孤独を苦にしている」と説明出来ていなかったのです。
高校の在学期間中、私はただの一度も、学校でも自宅でも、心の中で「自分には、一人も友達ができていない」という構文を作れなかったのです。上の行や「第二章 ~浸蝕~ その5」や「第三章 ~涵養~ その1」などで肉付きの面のメカニズムであったり、肉付きの面をつけざるを得なくなった心理・生理描写であったり、肉付きの面の「肉付きの面」という呼称を記述できるようになったのは、高校を卒業してからさらに後年に至って、過去の分析をした結果であったのです。
私の肉付きの面は、高校生活が始まってから五日目に、胃の裏にマグマを感じるや否や無意識の内に、「その生理感覚を紛らわせなきゃ!」と危険信号が働き、反射的に表情筋を動かされ、固められて出来上がった物でした。「『友達が出来ていないのか、不幸な奴だ、』と言われにくくするために、自分は仏頂面で表情を固めるぞ!!」などと、心の中で述べてから、自主的に顔に被せた物ではなかったのです。肉付きの面をつけるようになってからどんなに期間が続いても、私は通学路では引き締まった顔に、校舎に入るとしかめっ面に、教室に入ると仏頂面にといった、クラスメートに近づくほどに人好きがしないように顔に動力が加えられるパターンを、毎日他人事みたく観察していました。しかし「何の目的でそれをつけているのか」については、自分の心の中で説明できないままでした。
私は、学校では周囲のはしゃぐ若者という自分の不幸さを強調するオブジェクトを大なり小なり絶えず五感で認識しなければならないわけで、校舎にいる間じゅう、基本的には私の胃の裏には溶岩が見え隠れしていました。その上、言語的なオブジェクトとして不幸な現況を連想させる「友達」という語を含んだ文言を心の中で作れば、いよいよ内蔵が焦げ落ちてしまうぞ!と潜在意識がそれに取り掛かることを制止していたのだと思います。
さりとて、自宅ではどうだったかというと、自室に居る時は、さすがに肉付きの面こそつけませんでしたが、なんとなく意識に上らせられない議題を抱えて、いつでも悶々としたものを感じていました。
時々、「自分はなんでこんなにいつもイライラしているんだろう」「自分は学校のことを考えると、なぜかセンチメンタルになるな、それはどうしてなんだろう」「自分は何で、外に出ると表情が硬くなるんだろう・・・」などとふと夢想することがありましたが、それらの心内語の続きは、次のようになるのでした。「もしかしてそれは、こういう理由だからかな・・・。・・・・・・。自分には、クラス内に友d・・・!いや、なんでもない、それよりインターネットで遊ぼうっと・・・。」
家庭内であっても、心の中で「自分には学校で一人も友達が居ない」という文字列を並べようとすると、昼休みの時と同じに、内臓が坩堝になるような感じが起こり始め、その動作を中断せざるを得なくなるのでした。
インターネットの面白いページを巡っていて、他の当事者の記述した「自分には友達が出来なくて悩んでいる」というような文面を読みかけたような時にも、私はすぐに目をそらしていました。
それほどまでに「高校に通っているならば友達を作って同年代の者に己の存在が承認される喜びを得るべきだ」との価値観に触れることと、胃の裏の焦熱感との連動は大変精密で、なおかつ私はたとえ一瞬でもその焦燥感を味わうのを恐れていたのでした。
まるで、胃の裏の少し下に濃密な劇薬が大量にしみこんだスポンジを仕込まれたかのようでした。そのスポンジは、わずかに触れられるだけでも、劇薬をにじみ出させ、それが肉質に触れるとたちまち溶岩の如く急騰し、そこより、蒸気をたちのぼらせ、上の臓器すべてを高熱に冒すのです。
高校在学時につけていた日記がありますが、その中にも「友達がいない」という文字列は一度も登場していないのです。厳密に言えば、日記をつけ始めた高校に入学する前日のページに「昼休みに一緒に弁当を食べる友達はできるだろうか・・・」という記述があるきりです。
そういう訳で、2006年4月11日の朝に「何で学校に行きたくないの?」と聞かれて、普段自分にすら言えないのに、その文字の配列を、自分以外の人間である母親に即興で並べ立てられるはずも無く「辛いから、苦しいから」というような発表の仕方と相成ったのです。
高校に入学してから、自らの実情をまるで言語化できないままでありながら、好き嫌いの分別としての学校に対するマイナスイメージは、登校する回数ごとに強固になる一方でした。
朝が来る度に、学校に行けば味わわされるかも知れない屈辱的な光景が次々と鮮明に目に浮かぶようになってしまいました。
そうして、2006年4月11日の前日は、二学年に上がった、新クラスの発表のなされた日でした。その朝は、「新年度となれば、去年度までの人間関係が切れることによってみんな心もとなくなっているので、新クラスの編成によっては、自分にもようやく人とのつながりができるかも知れない」と、久しぶりに悩みから脱せる希望を抱いた朝でした。
しかし、元担任教師の口からは、私が高校一年次にかなり嫌いだった、そして高校生活総括で最も嫌いになる同級生と、再び一年間同じ学級に割り振られたことが述べられたのでした。しかも、その後新クラスに解散する間際に、その同級生が仲間に「また立瀬と一緒のクラスとか、マジイカスし!」と愚痴ったのを耳にいれてしまったのでした。この時、一縷の望みを持ちながら急転して落とされた分、私の学校への悲観は未曾有の度合いとなったのです。

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