【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その2

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一階に下りていて戻って来た母親が言いました。
「まーちゃん、お父さん、行けって」
手には、電話機の子機がありました。母親は、私の高校での事情を一語でも掘り下げず、それをする意図や必要性をまったく説明しないまま、父親に電話をかけたのでした。その必要性は「いきなり息子が高校を中退する恐れが出てきて、不安になったので早く安心したい」ということで、その意図は「安心するために問題への対処の責任をすべて夫に押し付けたい」ということであったのでしょう。
私が受話器を握らせられると、父親は、
「マサキか?行けよ」
と言いました。
「え?」
「行けって」
今度は私が「何で?」と聞いたことと思います。その正確な返答は忘れてしまいましたが「―――――――から」と、不機嫌そうに言い放った断片が、脳の一隅に残っています。
それと、このやり取りの内に、苛立ちの募った私が、「辛いとか苦しいっていうのは、勉強のことじゃない!」と語気を強めた一こまがありました。つまり父親は、発言に「勉強」という語を一度は使っていたことになります。例えば「勉強をするのが、高校生の本分だから」という発言であったかも知れません。

なお、私がそれまで勉学に割いた時間は決して少なくは無く、私の一年次の学課成績はクラスでは上位の方に位置していました。学校生活での不満から、家でもイライラすることが多かったのに、それを押して家庭学習に取り組んだのは、将来具体的に何かの役に立たせる想像をしての事ではなく、クラス内での劣等感を埋め合わせるためでした。しかし、テストで多少良い点数を取っても、ドーパミンの慢性中毒者が私を最下級の身分になんとしても押しとどめたい意欲の前では無いも同然の名誉であり、彼らの侮辱行為の頻度は減ることはなかったのです。この頃の私には、勉学は報われない時間の使い方、というイメージが深く染み付いていました。
それからややあって、高台ベッドの梯子を上って来ていた母親に、とうとう私が激高して泣き出して、「もうお父さん嫌だ!!」と叫んで受話器を押し戻そうとした一幕がありました。しかし母親は、受話器を持ったままベッド柵をつかみ降りまいとして、あくまで父親の声を聞かせようとしてきました。
母親は、「ひとりで辛かったんだねぇ」と言ってくれた時には、息子の情状を聞こうという気持ちも交ざっていたのかも知れません。しかし、父親が事情の如何にかかわらず息子を登校させる、という意向を持っている事が判明した以上は、それを全面的にうべなうのが母親なのでした。
父親と全体でどれほどの数言葉を交わした後だか覚えていませんが、父親は、私に「行けよ」「行けって」と、機械的に言うセットを、複数回使用してきました。何度目かのそのセットを聞いて、もう父親と話しても埒が明かないと考えた私が「わかった・・・行くから」と言うと父親は、「よしわかった頑張れ」と無機質に言って電話を切りました。
前言は、ひとまず父親の声を消すための嘘でした。母親は、一件落着したと心做して、私から子機を受け取り、充電器に置きに一階へ降りました。それから再び支度を促しに来ましたが、私は布団を被ったまま再び「行かない」と宣言し、「お父さんは学校の時、いっぱい友達いたんだよ!!」と叫びました。すると母親はまた電話をかけに行き「まーちゃん、お父さん学校のとき、友達なんかいなかったって!」と言いながら戻ってきました。
「マサキ、俺は学校の時友達なんかいなかったぞ」
と電話口で父親が言いました。
私の「お父さんは学校の時、いっぱい友達いたんだよ!!」は、自分についての説明を「いっぱい友達のいる人を羨ましがっている」というニュアンスに留めるによって、聞く人にとって「友達が完全に一人も居ない状態である」から「友達が少ない状態である」まで解釈の幅を取れる言い回しにするによって「自分は完全に友達の出来ていない人物である」という確言を避けるによって、胃の裏を焼く溶岩をぎりぎり耐えられる量まで減らしながら、両親が、私の高校生活における実態を知ろうとし始めてくれることを期待しつつ、ようやく搾り出せた文言であったのでした。
しかし、私が自分の内臓を守るために、高校生活の悲惨さの表現を抑えたことを、父親は息子の悩みが大した度合いではない証拠であると見当違いして、息子以上の苦悩を耐えて社会人になった実績を誇り、大した悩みではないくせに退学をすれば、わがままと見做し罰を与えるぞ、という脅迫を私に与えたのです。
父親は、私が実際は大した悩みを持っていなくて、甘えや怠けで「学校に行きたくない」と言っている、と思い込みたいところもあったのかも知れません。
父親には、息子が「学校に行きたくない」と言い出したその口を封じて、昨日までありきたりだった日常を短絡的に取り戻して、心の平穏をとりあえず保たせたいというホメオスタシスも働いていたと思われます。
私と父がまた「行かない」「行け」の押し問答を続けていると、
「まーちゃん、元気が出ないんだったら、そういう病院行こうよ」
と母親が言いました。
「そういう病院って・・・」
私は、母親がどんな病院のことを言っているのか大まか見当がつきました。
「学校行かないんだったら、精神科!!」
母親は強く言い放ちました。
そうであって欲しくないと祈っていましたが、やはり予想どおり、母親の言う「そういう病院」とは精神科を標榜する病院を指していたのです。
「精神科でいい」
それでも私は、母親の提案を承諾しました。

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