焦燥感の表現:「夜船閑話(やせんかんな)」からの引用

Pocket

書名:夜船閑話やせんかんな
作者名:白隠禅師
年刊:1757年

引用文に至るあらすじ:白隠禅師は、本名を白隠慧鶴(はくいん えかく)といい、1686年~1769年の江戸時代中期を生きた僧侶です。その著作である「夜船閑話」には、白隠禅師が若い頃に心理的な病を抱えてしまった時の生理体験の描写が含まれていて、その心理的な病とは後世から分析すればおそらくパニック障害であったと言われています。そして「夜船閑話」内の生理描写は、日本最古のパニック障害体験記として、パニック障害の文献にはたびたび引用されるのです。
この記事でも、その文章を引用したいと思います。

引用本文:自ら謂(おも)へらく、猛く(たけく)精彩を著け(つけ)、重ねて一回捨命(しゃみょう)し去らむと、越て(ここにおいて)牙關(がかん)を咬定(こうじょう)し、雙眼(そうがん)睛(せい)を瞠開(どうかい)し、寢食ともに廢(廃)せんとす。既にして、未だ(いまだ)期月(きげつ)に亘ら(わたら)ざるに、心火(しんか)逆上し、肺金(はいきん)焦枯(しょうこ)して、雙脚(そうきゃく)氷雪の底(そこ)に浸すが如く、兩耳(りょうじ)溪聲(けいせい)の間(あいだ)を行くが如し。肝膽(かんたん)常に怯弱(きょうじゃく)にして、擧措(きょそ)恐怖多く、心身困倦(こんけん)し、寐寤(びご)種々の境界を見る。兩腋(りょうえき)常に汗を生じ、兩眼常に涙を帶ぶ。此(ここ)に於て、遍(あまね)く明師(めいし)に投じ、廣く(ひろく)名醫(名医)を探ると云へども、百藥寸功(すんこう)なし。

現代語訳:(悟りを得るために、山にこもって修行への決意を固めつつある白隠禅師)私は自分に言い聞かせた。猛烈な気持ちで、気合いをみなぎらせて、もし失敗したら死ぬというほどの覚悟を決めて、歯を食いしばって、両目に光をみなぎらせて、食べる暇寝る暇を惜しんで修行をしようと。しかし、そんなに月日も経っていない内から、心理的な病に悩まされるようになった。(訳者註:対外関係がないと、やはりパニック障害にも罹りやすくなるのでしょう)心臓は、燃えて跳ね上がるようで、肺が焦げ落ちたようで息苦しい、両方の脚は氷や雪の上に立っているかのごとくに冷たく、両耳には、絶えず河が流れるような耳鳴りが騒いでいる。(訳者註:パニック障害の最中は、心臓や、呼吸器のことに限らず、あらゆる感覚が研ぎ澄まされる物なのです)胆力は常に怯え、誰かと戦う自分は想像できない。何をするにも不幸が起こりそうでおぼつかない。心身は疲れ切り、寝ても覚めても、嫌な幻想が思い浮かぶ。(訳者註:パニック発作の最中には、眼窩の底に、心臓が止まって死ぬ自分や、パニックのせいで気が狂って死ぬ自分の映像がときおり思い浮かぶものなのです)両方の腋には常に汗が流れ、センチメンタルでつい泣き出したくなってしまう。あわてていろいろな名医を尋ねたが、どんな薬も少しも効果がなかった。

管理人のコメント:パニック障害克服の指南書の中で「夜船閑話」がときどき引用されるのは「250年前から、現代の物とそっくり同じパニック障害の悩みが存在していたんだよ」ということを読者に語りかけたいためなのだと思います。
パニック障害の患者は、自分では特に理由が見当たらないのに、パニックを起こしている自分自身を恥じて、落ち込んでしまい「こんな変な悩みを抱えているのはきっと自分だけだ」という意識に陥って、誰にも相談ができないという状態に陥りがちなのです。
「パニック発作に陥った人が抱える述懐や生理感覚は、古今東西を問わず誰でも同じなんだよ」という語りかけは、そうした当事者にとって自分を打ち明ける助けになるということです。

そうして、焦燥感の表現シリーズの前回の記事で述べたようにパニック発作の最中の人が味わう生理感覚は、悩みを抱えるあらゆる人の味わう生理感覚とまったく同一の物です。

「夜船閑話」の引用文は、パニック障害の当事者からだけではなく、未来への不安を抱える人全般から、悩み事を引き出す力を秘めた、よりそいの古文書であると言えます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です