【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その5

ただ、長い間目障りであったモニュメントを次々に減らせたのはいいことで、これまで積み重ねてきた作家になるための努力が思わず役に立ったのも嬉しいことで、一遍を書き上げるごとに達成感もありましたが、怨恨を描写する作業の最中には、寂しさの情を描写していた時と比べてしらけた気分が混ざっていました。 “【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その5” の続きを読む

【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その1

〈第八章~隠された古文書~〉

転機が訪れたのは、2010年の初頭でした。
社会生活に戻れないまま月日が過ぎてゆき、持て余した時間の内に、活発な自分への憧れも、思い通りにならない身体への歯がゆさも強まる一方でした。
自由を最も制約する枷は、やはり不眠の悩みでした。私は、その頃にもいまだに、どうすれば毎晩健全な眠りを摂ることができる身体を手に入れられるのかということばかり思案していて、そのたびに葛藤に渦巻かれてしまいました。
私は、早い段階から、何度も「長谷部先生に枕の上で考え事を始める間もなく眠れるようになる強い薬を出してもらおうかな・・・・」と、心を傾けては、そのたびに「でも薬害が・・・・。肝臓への負担が・・・・。Bのせいで肝臓ガンにかかったら・・・」という懸念によって、思いとどまらされていました。
一方、薬を使わない前提の上での不眠解消法をインターネットで探ったところ、その頃でも就寝前に座禅を組む習慣を持っていたことも関係していましたが、座禅よりもさらに高度な呼吸法であるという丹田呼吸法なるものを知り、その呼吸法を習熟しようかな、と思い立ちました。丹田呼吸は武道の修練にも役立つと紹介されていたことも、その意欲に力を添えました。
しかし、丹田呼吸法を学べる道場は、ほとんど東京23区内にしかないそうなのでした。
最寄り駅は使いたくない!自転車で30分かけて3つ隣の駅まで行ってから電車に乗ろうかな、いや、面倒だし、元同級生との遭遇率はあまり変わらないだろう・・・。バイクの免許とろうかな・・・。いや、近隣の教習所には、元同級生がいるかも・・・。それに、車の運転は事故が怖い・・・。父親が平日、朝6時に自動車で浦和まで出勤しているから、それに乗っけてもらおうかな・・・・。でも7時に着いた後に、道場が開くまでの時間つぶしどうしよう・・・。第一、父親とあんまり話したくない・・・。道場の近くに下宿・・・?いや、家賃が何万円もかかるし、丹田呼吸法のためだと説明しても両親が家賃を負担してくれるどうかわからない・・・。家賃の分バイトをしようにも、毎晩の睡眠が安定してないのにちゃんと約束どおりの時刻に出勤できるか自信ないし、バイト先の誰かにまた身体のどこかをしつこく触られるかも知れない・・・。アパートの隣の住人が、やたらに物音を立てる人で、その騒音へのストレスが幻聴に変わってしまうかも知れない。それにBの不法行為のせいで、通常より多く支払わされる、水代と光熱費の明細票や石鹸代のレシートを見るのがいやだ・・・。
東北には丹田呼吸の道場は、仙台に一軒だけあるみたい・・・。福島から通うと・・・。新幹線使って一回往復10000円かあ・・・・。・・・・・・。

私は、日を追ってセンチメンタルを深めてゆきました。もうずっと長い間友達との楽しい思い出を作れていない自分の人生に、敵ばかりが思い浮かぶ人生に、枷を何度はずしても、また新たな枷が現れる人生に、希望は皆無となりつつありました。この頃の私はしばしば夜中に小学生の頃に住んでいた町の公園に自転車で出かけて、木々の間を歩き、遊具にもたれかかりました。
私は、ノスタルジーの情にひたることによって、自分の現況から目をそむけていたのです。
あるいは私は、深夜の汚れの少ない涼しい空気の匂いを嗅ぎました。それによって少しすっきりした気分を感じて、気を紛らわせつつ、主に日中外を出歩く普通の人には味わえないであろうそのちょっとした気分の良さを、自分の中で、大きな気分の良さであるかのように言い聞かせて、夜だけの楽しみを知っている自分を演出して、自分の時間の使い方が一般の人と劣らないと思い込もうとしていたのです。

そうして、私は一月の半ばを迎えました。
自室で、いつものようにインターネットの面白いページを探していると、2ちゃんねるのまとめサイトのあるスレッドが目に留まり、「舌の置き場所を意識しだすと、もどかしい」とか「足の指同士のしめり気含んだつくかつかないかの感覚を意識しだすと、気持ち悪くて切り落としたくなる」など、普段の生活の中で気にし始めると止まらなくなる些細な身体感覚を挙げて共感を得るというお題のスレッドがあり、私も興味を持って画面をスクロールさせていました。そうしてふと、その中の書き込みに「強迫性障害の治療なら『森田療法』がオススメ」とあるのが目に留まりました。

『森田療法:森田療法とは、精神医学博士・森田正馬(1874~1938)が大正時代に創始した日本発祥の心理療法です。対人恐怖症、強迫性障害、パニック障害、特定の事物への恐怖症などの神経質症(現在では不安障害と言われます)に有効とされています。薬をなるべく用いず、患者を何もない個室のベッドに横にさせたまま、食事と入浴とトイレ以外の一切の行動をせずに、一週間過ごしてもらい、人間が本来持っている行動したい欲求を活性化させ、その後の充実した生活につなげる絶対臥褥を特徴としています。
第一期 絶対臥褥期                           (五日から一週間)
第二期 起床、散歩、草花や蟻の観察、日記の記述など、病院内での軽作業を許す      (三日から一週間)
第三期 園芸、薪割り、手芸、袋張り、掃除、ウサギや鶏の世話、薪割り、風呂焚き、畑仕事、他の患者との遊戯など重い作業も行う。(一週間以上)
第四期 社会復帰への準備期間。外出訓練など。事情によっては、病院から通勤、通学を再開させることもある。
・・・・・・』
検索し始めた最初の印象は「自分には適さない」でした。「無気力な、ニートの人向けの療法だな・・・・。自分は、無職は無職でも、事情があって外に出れないんだから関係ないよ。プー太郎は中途半端に気晴らしが出来る内は社会に出ないから、完全に退屈きわまる思いをさせれば動き出すだろうという、単純な真逆の発想をしただけの民間療法に近いものだな」と軽蔑心すら覚えました。
ところが、続けてページをめくっている内に、私は「メンタルヘルス岡本記念財団」という公益財団法人のホームページに行き当たりました。そこには、森田正馬の弟子の高良武久という方の著作を転載したコンテンツがあり、私はすぐさまその文面に魂を奪われました。

(このとき私が発見したページはこちらになります。メンタルヘルス岡本記念財団のホームページは、ありがたいことに今日までも続けて運営され、コンテンツもどんどん拡充されています。 不眠への恐怖、パニック障害、潔癖症、騒音恐怖、劣等感、対人恐怖症その他不安障害に悩んでいる方には、絶対におすすめのホームページです。)

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【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その2

この記載は、今まで読んだどの小説よりも最も強い力で、最も長時間私の目を引き付けた文章であったし、それまでに触れたどの哲学書よりも劇的に、読了後の私の行動を変えさせた書き物でした。
特に不眠恐怖の項目は、一言一句が漏れなく身に沁み、読了直後から、私は不眠の悩みを克服できる自信に満ちていました。
実際の経過も言及の通りを辿り、私は、古の予言書に道を示されたような気分でした。 “【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その2” の続きを読む

【B毒の汚染】 第八章~隠された古文書~ その4

それから私は、自分が該当するマイノリティの自助グループに参加しようと決心しました。2009年の4月に肉付きの面を取り外せたあたりにも、「強迫性障害の患者会や不登校・引きこもり当事者のフリースペースやいじめ被害者の集会に足を運ぼうかな」と腹案に入れたことがありました。しかし、高校時代の青春を手に入れられなかったことや、高校を卒業した後にも、社会のメインストリームに乗れていないことを赤の他人にさらけ出すのはまだ恥ずかしく、さらに、社会的にネガティブなイメージの当事者団体に在籍するのも恥ずかしいことだと感じて、案をすぐに打ち消してしまっていました。
ところが、森田療法を知り、心の動き方のパターンを勉強する内に、自分のとってきた行動がすべて正常な心理の成分の総括であったことに気がついたのです。他の同年代の誰でも、生まれてから私と同じ境遇を辿れば、同じ心理を起こし、同じ行動をとるものだ、と思えるようになったのです。「学校時代の不幸があまりに重ければ、誰でも引きこもるものだ」と開き直れるようになり、強がりを一段と薄めることができたのです。「自分が持つ心理は、他人にもあり、他人の持つ心理は、自分にもある」ということを知ることは、森田療法の重要な学びとして文献中で幾度も触れられていることでした。森田先生は、昭和初期の当時にも「形外会」という神経質症経験者同士が自分の症状を告白しあう懇話会を作られたのだそうです。

『【差別観のとらわれから脱する】
神経質症状に悩む人の多くは、自分ほど苦しいものはない、こんな症状を持っている者はほかにあるまいと思い込んでいる。だから、他人の症状を聞いてもいっこうに同情しない。赤面恐怖症の人は不潔恐怖の人をおかしがり、不潔恐怖の人は不眠症ぐらいなんでもないのにと思う。(中略)入院中の患者たちははじめのうち自己中心的になっていて、自分だけが特別だと思う気持ちが強いので、いっそう自分を惨めに感じ、他人に対して同情することも少ないのである。(中略)私がウサギの箱を掃除しているのを見たある患者が、日誌に「先生は汚いことを平気でやられる」と書いていたが、私は平気ではなくイヤイヤながらやったのである、冬の寒い日、病院の前の妙正寺川で染物屋さんが、布をさらしているのを見た一人の患者が、「あの人たちは寒いのに平気で水仕事をしている。自分にはとてもできない」と日誌に書いてあった。このように自分に辛い事は人にもつらいということがわからないので、同情心も湧かないのである、正常人は「あの人たちは職業とはいいながら、つらい水仕事をしている。感心なものだ」と思う。
人は平気で大勢の人の前で話をするが、自分はあがってしまう、人は楽に勉強しているが、自分は苦しい。人はいつもいい気分でいるが自分はふさぎやすいなど、自分だけが特別だという考え方をすることを、「差別観にとらわれる」というのである。こうなるといっそう劣等感が強くなる、だから他の患者がなおるのを見ても、あれは軽いからなおるので、自分のは違うと思い、他人のことを参考にしようとしない。症状が変わっていても根本は同じだということにも気がつきにくいのである。』1

初めて参加した引きこもりの人向けフリースペースは、ある地方都市の公民館の一室に開かれていました。私はその2、3日前に、都心部の防犯ショップまで出かけて、ちょっと大きい変なペン型の催涙スプレー二本を購入しました。他人と数時間同じ空間に過ごすイベントにおいて、参加者の誰かが何かの拍子に、私の身体の一部分を面白がってしつこく触りたい気分になる可能性についての想定が、その時点では0%ではなかったのです。しかし、会場に着いてほどなく、私は、袖に仕込んだ暗器のことは忘れてしまいました。
会場は中央に大きな卓がある大きな和室で、私はイベントが始まる定刻に入室して、最初の集まりは数人でしたが、定刻を過ぎてからも、周囲の空気が実体化するように、しれっと人が増えてゆき、後には、中学生から中年の方まで、20人近くの集まりとなり、まるで公民館の休憩室に過ごしているようでした。他の来場者の方との話題は尽きることがありませんでした、学校時代の同級生を見返すとか、手っ取り早く就職したことにするために、小説や漫画やRPGなどの創作活動に取り組んだことや、両親との仲がギクシャクしていることや、深夜に外を歩き回る習慣のことや、2ちゃんまとめサイトで権力者が失敗するのを見るのが楽しいことや、ポケットマネーが減るのが惜しくて、新しいゲームを買えずに、お気に入りのレトロゲームをやりこんでいることなど、参加者の誰とでも、大なり小なり共通の経験があることが多く、それにみんな、人が話している時には話し終えるまで待ってくれていて、テンポよくノリ良くテンションを上げて笑いながらしゃべることを、お互いに誰も求めていませんでした。また、引きこもり期間中に強迫性障害にかかった経験のことを、私以外に複数の人が打ち明けてくれました。私は、
「曝露反応妨害法って響きがかっこいいですよね。なんか、錬金術の技法みたい」
と言いました。

同じ悩みを持つ他者と体験を打ち明けあうことは、単に嬉しいとか、勉強になったとか、安心できるといった言葉の表現によらない、なにか大きな力で、善導を与えてくれるもののようでした。
どこかの自助グループに参加して新たな知り合いを作ると、その後しばらくの期間、なぜか物理的な意味で強迫観念にはとらわれにくくなったのです。経験則によると、参加してから約二週間の間、脳裏には、「こないだの会合で、自分の言ったあのギャグは、もっとこうすれば面白かったんじゃないかな」とか、「このTV番組やインターネットの情報は、あの人が興味を持ちそうな内容だな」といった、対外関係に向かった思索が漂っていて、視界の中のBに関するものとそうでないものを色分けする心を置き去りにしやすくできるし、皮膚に新たにケチがついても、そのことから意識を離す時間を短くできるようでした。
自助グループで作った仲間があったればこそ、私は嫌なオブジェクトを色分けする強迫観念や、皮膚にケチがつくことへの恐れや、すでに定着してしまった伝播毒を克服できたと思います。

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最終章 ~螺旋の路地~

〈最終章 ~螺旋の路地~〉

私はようやく全ての枷を取りはずすことができました。本家毒も、伝播毒も、肉付きの面も、周囲のオブジェクトに憑依した侮辱の記憶も、不眠恐怖も、騒音恐怖も、一人ぼっちの孤独感も、読書習慣についてのみじめさのイメージも、精神医療に対する極端なマイナスイメージも、全てはおぼろげに思い出される夢となり果てたのです。
睡眠導入剤の減薬が進んでいく間に、私は長谷部先生にある疑問を問いただしました。
「先生、Bにしつこく触れられた部分に不快感が生じたという現象は、強迫性障害に含まれるのですか?」
初診時の長谷部先生の見立てではそのように取れる説明であったし、実際、本家毒は強迫性障害の治療法である曝露反応妨害法によって快方にむかった訳でしたが、強迫性障害という病への見聞を広めるほど、本家毒はその範疇から浮いている、と感じたのでした。
「ああ、確かにあの時はわかりやすくそう言いましたが、その症状は強迫性障害とはちょっと違いますね。」
「では、なんという病名がつくのですか?」
「えーそうですね、身体表現性障害・・・・・・と言ったらいいのか・・・。転換症状・・・とも違うし・・・、幻触ではないし・・・・。病名と言われると、ちょっとわからないです」

【身体表現性障害】:医学的に説明できる器質的な異常が見当たらないにもかかわらず、患者が身体関連の執拗な訴えをする状態像を総称した症候群名。

【転換症状】:無意識領域下に抑圧されたストレスや葛藤が、知覚あるいは随意運動系の身体症状に変換された反応である。その症状は一般身体疾患によっては十分に説明できない。現在では疾患単位ではなく、転換反応といった反応の仕方としてみることが主である。複雑多彩な身体症状を示し、症状の発生や悪化には、ストレスや葛藤といった心理的要因が必ず絡んでおり、症状は意図的に作り出されていないということが特徴である。患者は症状の発生がまず葛藤の解決法(一次疾病利得)となり、また症状を武器にして周囲を動かす二次的疾病利得の特徴をみることが多い。転換反応はヒステリー反応の一つとして分類される。ヒステリー反応には転換反応のほかに精神症状に変換される反応(解離反応)がある。これらは別個に発現することが多いが、合併することもある。

【転換性障害の症状】四肢の運動麻痺、失立、失歩、失声、嚥下困難、書字困難、痙攣、後弓反張異常運動(舞踏病あるいはアテトーデ様感覚障害ヒステリー盲、ヒステリー聾、視野狭窄、難聴、卵巣痛、乳房痛、限局性頭痛・腰痛、下肢痛、痛覚・触覚・味覚・臭覚の脱失あるいは過敏、ヒステリー球その他1

【幻触】:幻視、幻聴、幻臭、幻味と並ぶ幻覚症状の一種

「身体表現性障害には伝播毒のことも含まれることになるんですか?」
「ええ、そう言っていいと思います」
「転換症状の説明は適合しているかもと思ったんですが、違うんですか?」
「はい・・・。転換症状というと、患者さんに悩みが原因で身体的症状が起こってると説明すると、納得してもらえて苦痛はなくなっていくことが多いんですよ。心の底に病気になって同情してもらいたいという心理があるんだと思います。立瀬さんのように、自分で原因がわかってて症状が四年続いた、というのはあまり聞かないですね」
「ではどうして、先生は曝露反応妨害法が有効だとわかったんですか?」
と尋ねると、
「精神療法には、向精神薬を使って統合失調症の人の幻覚を消すこととか、内因性のうつ病の人の抑うつを和らげることとか、薬を使うしかない場合と、患者さんに社会生活に適応できるようにずぶとくなってもらうしかない場合の二種類しかないんですよ」
とのことでした。
上記のように、精神医学の現場では「不快だと思っている人物に触れられることによって皮膚に不快感が生じる現象が存在する」ことは、特に有名ではないようでした。いじめ後遺症の自助グループや、強迫性障害の患者会で、私の経験談を打ち明ける時の「そいつに触れられた部分に不快感が生じていたのです」のくだりでは、みんな目を見開いて驚くものでした。それに、人間生活に入るようになってから観察をしてみると「他人に急に触られるのはイヤ」と言う人は結構いるようでした。
そんな現象が世の中にあることを発表した者の責任として、本家毒の正体について私なりの結論を述べておきたいと思います。
本家毒は、皮膚の記憶だったのだと思います。私は、視覚的、嗅覚的、聴覚的、行動的オブジェクトに触れることによって記憶を蘇らせる自分の特性について記して来ましたが、触覚もまたその例に漏れなかった、ということだと思います。生物の五官の内で皮膚感覚の働きは生存確率上昇のための情報源としては地味なようですが、ちゃんと活躍しているということだと思います。

さて私は、2010年の6月中旬になると、福島の祖母宅に出かけ、前年抑えつけられていた反動によって暴走する果実酒欲の赴くままに、お酒を自ら買えるようになった年齢を携えて酒屋を回り、瓶の洗浄を手早く行えるようになったことも手伝って、米焼酎、芋焼酎、黒糖焼酎、粕取り焼酎、栗焼酎、泡盛、ジン、ラム、ウォッカ、ウイスキー、ジョージアムーン、アクアビット、ブランデー、ポートワイン、カルヴァドス、スピリタス、テキーラ、グラッパ、アラック、カシャッサ、白酒、汾酒、茅台酒、と東西南北の液面合計100リットルに梅を漬け込み、さらに盛夏には100個以上の桃と桃仁酒を消化器官に塗りこめて、ようやく私は「福島は楽しいものである」という理を取り戻しました。

社会復帰の方面のことにも進展があり、大学進学の計画は立ち消えとなりました。自分の夢のために大学進学は大した意味がないことに気づいたのです。自分の心の声に耳を傾けると、私の適正はどうも果物に触る仕事であるようで、私は将来の職業として果物農家となることを見定めました。ただ、その進路なら30代に入っても就けると思われましたので、若い間は都会に暮らして、人との思い出を沢山つくろうと考えました。
私は、職業訓練校の二ヶ月間の講習でヘルパー二級の資格を取り、新宿区内の訪問介護の仕事に就き、一人暮らしをすることにしました。訪問介護の仕事を選んだのは新宿の街を駆け回れるからでした。後に思い出して懐かしめるような光景をたくさん目に入れたかったのです。

そうして訪問介護の仕事はアルバイトでした。本業としては、私は新宿二丁目のゲイバーの店子をやりたかったのです。

〈最終章 ~螺旋の路地~〉 完

B毒の汚染 (了)

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