【B毒の汚染】 第六章~嵐の爪痕~ その1

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〈第六章 嵐の爪痕〉

実家に帰ると夜九時で、当然その日の診察は無理でした。
予告もなく数ヶ月ぶりに帰ってきたことに驚いた母親に、私は「長谷部先生のところに行く・・・」「精神的な問題を抱えた」と言いました。
母親とは、この一年100語も口を利いていなかったさすがの私も、この晩は折れてこれまでの経緯を説明し始めました。
「中学校の時、B(フルネーム)って奴が居たでしょ・・・?」
中学校の「三年生を送る会」の音声起こしをしたり、B毒の症状を言語的に説明したりするのは始めてでした。
単語を探して選んで、一から文章を組み立てているため自然と説明は、たどたどしくなり、それに私は頻繁に涙で言葉を詰まらせました。
母親は「うん・・・うん・・・」と平静を装って聞いてはいましたが、
一行もポジティブな行が無い口述が、いつ終わるとも知れずゆっくりにじみ出てくることに動揺していたようで、私の語りが四合目も過ぎない所で父親が帰宅して来ると、「こういうことはお父さんに聞いたほうがいいね。お父さーん」と呼びかけました。
父親は別に全然、精神医学や裁判に携わる職種でもなく、特段腕っぷしが良い人物でもないのであり、母親は単に、またしても問題の対応を夫になすりつけようとしたのです。しかし、父親は母親から、「まーちゃん中学校の時にすごい嫌がらせされたんだって、それで・・・」とまで聞いて、話の主題が大変に陰惨なのを察すると「俺はわからないから、そういうことはお母さんが聞いておいて上げてください」と言って、さっさと自室に上がって行ってしまいました。
父親は、2006/04/11 8:48の電話口で「マサキ、俺は学校の時友達なんかいなかったぞ」と、あたかも私よりも苦しい学生時代を耐えて社会人になったかのような発言をしましたが、私の学校時代の負の遺産の一端がとうとうめくれ出たこの時におよんで、それを目に入れずにすたこら逃げ去ったのです。すなわち学校生活で人間関係がうまくいかないことによる弊害についてまるで想定できていなかったのであり、その発言は虚偽だったことが明白となった瞬間でした。
私が残りの来歴を語り終えると、母親の第一声は「まあ、」でした。
「まあ、こっちが大人になれば・・・・小さい人のことは、気にならなくなると思うし・・・」
母親は、私への憐憫を語るでもなく、Bへの義憤を叫ぶでもなく、私に責めを負わせるような発言をしたのでした。
実は私は、Bとは小学校も同じであり、母親は、Bの氏名を知っていたし、保護者会などで、Bの両親も知っていたはずなのでした。にもかかわらず、会話の主題がBへ責任を取らせに行くことにならなかったのは、今現在(22:59 2017/03/19)まで、時間が経っても、私には分析しきれないところです。
約四年も前にされた侮辱行為を蒸し返して騒ぐのが、体面が悪いと思ったのかも知れません。
息子に、侮辱されても反撃する意気地が無いことや、それに高校卒業からもう一年間、無職の期間が続いていることなど、いずれにしろ息子の情けなさが、町内に知れ渡るのを恥じたところもあったことと思います。
宇宙史としては、確かに立瀬のり子の言動は上記の通りでした。

私は自室に戻ると、高台ベッドに入りました。私もいいかげん、考えれば考えるほど不安の意のままになってしまうパターンに気づきかかっていて、首の後ろの皮膚感覚をいじくることはさほどしなくなっていました。
活動エネルギーをすこしでも長く保たせるためにただじっとしていることにしました。
幻聴への恐怖はなおも強く、私は耳栓をして側臥し、両側とも耳殻で耳の穴を覆い、その上から掛け布団をかぶせ、さらに敷布団の頭側を折り曲げてかぶせ、そうして、その上から腕で、耳があるあたりを押さえつけました。
その内、三時間ほど意識を失いましたが私はそれを精神的ダメージが嵩んだ末の気絶だと思いました。
目覚めたのは未明でした。その後の私は、部屋の隅から隅を行ったり来たりして、頭の中で、4年分のいきさつを長谷部先生にわかりやすく説明する文言を練り直していました。時には、長谷部先生でも治療法がわからなかったらどうしよう、と最悪の事態への不安が渦巻きました。
朝を迎えると、階下から両親の会話する声が漏れてきて、高校時代にも何度もした事でしたが、私は、階段の最上段に忍び寄って聞き耳を立てました。
「三年生を送る会の時・・・・お友達に・・・・・。・・・二倍返ししてきたんだって・・・。それが、指で掻いたところに・・・・」
「ほとんど四年間ってことだよね・・・?」
「今は、ずっと部屋を歩き回っているみたい」
と母親は観察結果を報告しました。
「あいつ、もっと運動した方がいいよね?」
父親もまた、私に責めを負わせるようなことを言いました。なお、ここで父親の考えた療法は、不正解でした。私は、高校一年生の時に、自分にとりえがあることを同級生に主張したくて、秋のマラソン大会で活躍するために、夏休みの初日から数ヶ月間、6㎞のランニングをする習慣を持ったことがありました。その一時期を経ても、B毒は改善しなかったのです。
「誰?」
母親は、父親の「あいつ、もっと運動した方がいいよね?」という発言は誰のことについて言っているのかを父親に尋ねました。
今まで話に出ていた人間について言っているのはわかり切っているのにもかかわらず、それを言いました。
自分たちが陽に暗に「嫌な事があっても学校には行くものだ」という意識を息子に植え付けたことによって、息子に弊害が降りかかったことに対しての責任が負わされつつあるらしいことであったり、
それに、得体の知れない、治るのかどうかもわからない疾患に罹ったことで、すでに二浪が確定している息子がまたもや社会のメインストリームから遠ざかったらしいことであったり、
いずれにせよ、それまでの日常生活に悪い変化が急に加えられたことから反射的に目をそむけるホメオスタシスが働いて、誰のことを言っているのかについてとぼける発言をさせたのだと思います。
「マサキや、マサキ」
と父親は母親を袋小路の最奥まで追い込みました。

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