【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その8

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同じ頃の母親は、朝の8時20分に私を起こしにきて、私が布団にもぐったままなのを見ると「今日は学校行くの?行かないの?」と問いただしを必ずしてきていました。母親は、息子に無理強いする自分の姿を作らないために「絶対に学校に行け」という言辞は使わないまでも、その問いただしの口調や表情は露骨に不機嫌そうで、また私が返答を渋っていると「頑張る?」「行ける?」「行けそう?」「行くか行かないか迷ってるんだったら、行ったほうがいいと思うけどなー」などと、登校する方面に誘導する聞き方をやたら多くしてきました。
長谷部先生との会話の、母親が引用した部分の直前には、正確にどのようなやり取りがあったのか、すなわち息子を精神科受診につなげるに至った建前上の理由をどう説明していたのか、今現在でも私はまったく知らないことですが、母親は長谷部先生に「嫌がる息子を強制的に学校に行かせている」という構図をさとられるような述懐は決してしなかったであろうことは想像のつく所です。
母親が、平日の朝の日課として息子にその日の予定を訊く時間を取っていることを長谷部先生に話していたとしても、例えば「それは、学校側に遅刻か欠席なのか予告の連絡を正確にできるようにして義理を守るためなのです」などと常識人らしい理由付けをしたはずであるのです。
しかし、長谷部先生という先生は、母親の隠れ蓑を見破り、葛藤の正体を確認させたのでした。
そうして、その後長谷部先生は、母親を強い口調で叱責したのだそうです。
「本人が嫌がっているのに学校に行かせても、逆効果になるだけ」
「お子さんは、もういい年の青年なんだから、進路は自分で決めさせなさい」
というようなことを言われたそうです。
母親が朝の日課を語ることになるほどに、具体的な身辺の情景を聴く雰囲気作りをしてくれることも、
侃々諤々が起こって、所要時間がかかってしまう可能性を恐れず、母親に対して反対意見を述べてくれたことも、
後になって、息子が高卒の資格を失ったことに両親が文句を言いにくるかもしれないのに、私の進路にかかわる意見を述べてくれたことも、いずれも希翼クリニックではあり得ない事でした。
母親は、医師の見識を以って大局的な観点から直接自分の心がけを非難され、すっかり恐縮し、帰宅して私に謝罪をするとともに「もう、朝起こしにいかないから」と言いました。また「長谷部先生は、まーちゃんとすぐにもお話したいって言ってた」と伝えました。
長谷部先生は当時の私にとって、久々に好感を持てた他者でした。しかし、結局、高校在学中に、私と長谷部先生が接見することはありませんでした。
母親は私に謝罪した翌朝から、予告どおりに声かけが来ることはなくなりました。その日を境に、私の欠席の割合はやや上がりましたが、完全に休日で塗り替えられたわけでもなく、自発的に登校する日もまだ交ざっていました。私とても、みすみす同級生に高卒中退に追いやられるのが悔しいという感情に突き動かされることがあったのです。
この時点での私に言わせれば、自分が高校中退と復学とどちらに漂着するのかの見立ては7:3というところであったと思います。
しかし、幾日も過ぎない内に事態は急転しました。クラス担任の教師から「あと一週間分欠席すると留年が確定する」と電話が来てそれが父親の耳に入ると、父親は頭ごなしに私を怒鳴りつけてきたのです。
私が、高校を中退を余儀なくされた場合に備えて、父親の怒りを減らすためにうつ病患者らしい演出を積み立ててきたつもりでいたことなど、父親の知ったことではなかったのでした。父親は、単に自分が働いて稼いだお金を、私がムダにするのかしないのかでしか、見ていなかったのです。
そもそも私に「精神科に行くことが学校に行かなくても許されること」という認識を植えつけたのは、以前母親のした「学校行かないんだったら精神科!!」という発言のためであったわけですが、その母親は、父親が激怒している間、何も取り成してくれませんでした。
また母親は、夫の激怒を見た後、翌朝からは長谷部先生からの進言を放り出して、私から何としても「学校に行く」という言葉を引き出そうとする般若に逆戻りしました。
私は再び登校するようになりました。登校するというより、学校に身体を運んで、教室で授業を受ける形に身体を工作している気持ちでした。そして、私は、両親の前では、常に殺気立った表情を崩さず、不必要な会話は一切しなくなりました。
長谷部先生に一度会ってみたいという気持ちが高まっていたのも、ご破算となりました。また、希翼クリニックへの通院も、自然に廃止となりました。
精神病者扱いを受けてプライドを傷つけられる代償を払っても、父親が高校中退を大目にみてくれる利点など得られないことがわかったし、父親を長谷部先生のところに連れて行けば、長谷部先生は「子供を強制的に学校に行かせる行為の是非」という議題において父親を論破してくれるのだとしても、その接見から帰宅した後に、父親は私に対して恥をかかされたことへの復讐をしてくるであろうことが容易に想像できました。
母親は、私がしばらく精神科を受診していないのに気づいた頃に「クリニックもう行かないの?」と一度声をかけてきましたが、私がただ一言「行かない」と答えると黙して、再び同じ話題を出すことはなくなりました。
母親もまた、夫の激怒を見て、「息子はうつ病なのだから、寛大な目で見てあげて」という論法が夫に通じないことを知り、かつ、夫と長谷部先生をつなげる事により、夫の怒りを煽ってしまうリスクが考慮に入り、私を精神科に通わせる意義を感じられなくなったのだと思います。また、うつ病の悪化により息子が自殺してしまうリスクについては、その責任の大部分を夫に負わせられると踏んで、見て見ぬふりをすることにしたのだと思います。
離脱症状が出るほどに、私の脳中に向精神薬がなじんでいたという問題がありましたが、私は希翼クリニックの医師が新しく薬を替えるたびに副作用が重くなっていくのを感じた時から、新しい薬はひそかに捨てていたし、以前からの薬についても、とっくのとうにインターネットに載っていた減薬のやり方の通りに飲む量を徐々に減らしていて余った分を溜めていたため、新たに処方箋を貰いに行かなくてもおいおい薬の影響を断ち切ることができたのでした。
こうして、私と精神医療とのかかわりはほどけました。母親の「まーちゃん、元気が出ないんだったら、そういう病院行こうよ」という提案に端を発して、私の前に現われることになった視界や音声は、高校在学中も、高校を卒業した後にも、日常的に幾度も私の脳内を占拠しました。
私は「そういう」とか「精神科」とか「うつ病」とか「初期症状」とか「早期治療」とか「向精神薬」とか「お大事に」といった用語が目に入ったり耳に触れたりする機会に、ともすれば地団太を踏まされました。
私はただでさえ、実家の自室に居て、学校の嫌いな人物に関する記念品に触れた時に地団太を踏む事がありましたが、両親のことについて苛ついている時の地団太は、両親に対して騒音で意趣返しをしてやろうという心によって、足に力のこもった地団太となりました。

以上のように、精神科に通わされた事は、私にとって消し去りたい過去であったはずでした。2009年1月23日の就寝前まで、自分が積極的に再び精神科医にかかりたいという意思を持つことになるとは夢にも思いませんでした。
しかし、B毒の遷延に始まって、いつ不眠死するか知れない身に追い詰められた今この時に至っては、顔も知らない長谷部先生の存在が唯一の光明となって、思い浮かんだのでした。

電車は、実家の最寄り駅に着きました。ホームに出ようとすると、私はある顔に両目の収斂を吸いよせられました。
Oでした。私の左隣の席で、私が人非人の毒手に触れられているのを、見てみぬふりをしたあの人物でした。
私は、今際の際の憎しみの目で、Oを睨み付けました。Oは、どうしてそこまで殺意の眼光を向けられなければならないのか、心外そうな目つきをして何も言わずに上り電車へ入ってゆきました。

〈第五章~忘れられた坑道~〉 完

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