【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その7

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逆境は日を追って重くのしかかり、時間の進み方は滞るばかりでしたが、私はもはや両親に弱音を漏らしませんでした。
4月11日の一回の朝の内に、「『学校に行きたくない』と両親に口にすれば直後に不幸を受ける」という条件反射が私の中に組み込まれ、その動作に関するチャネルは固く塞がれていたのです。
結局、高校在籍中全体で、学校のクラス内で自分の置かれた現況に関して、私が両親に漏らせたヒントは「お父さんは学校の時、友達いっぱいいたんだよ!!」と叫んだことが全てとなりました。
両親の方でも、精神科医まかせにすることによって息子が回復軌道に乗ったと思い込んだきり、その発言の意図を、後から再検討して、私の学校生活での実情を調べ始めてくれることはありませんでした。
表面上は大人しく学校に行けているようでも、私の内実では、触れればストレスを呼び起こす負のオブジェクトが日に日に数を増して行き、嫌いな特定個人の人数も増えるばかりで、全体的な不幸への反応準備状態も習慣付けられて行くばかりで、人間生活へ出れば不幸な目に遭う、という条件反射の回路も強まる一方で、とりわけ、私が社会の規律を守るつもりで授業に出たのに、教師が自由に班を決めて学習過程に取り組むのを許す無配慮な采配をしたために、私一人が疎外感を味わわされることになった、などという体験があると、私は社会への敵愾心をすら覚えることとなりました。
私は「両親に無理やり学校に行かされている」という意識を持ってからは、学校で不幸を受けるたびに、その憤懣の一部を両親にも募らせてゆきました。
2006年6月29日には修学旅行の宿割り決めがありました。私の同級生たちは、普段から親交のある人物と同じ部屋に宿泊して、修学旅行をなるべく楽しい思い出にしたいという意識を持っていました。
私のクラスには、何枠かの三人部屋と二人部屋が割り当てられていました。
宿割り決めの場では、まず気心の知れた友人同士の三人組がいくつも出来上がりました。それから、どこかの三人組に私を組み入れて、二つの二人部屋に、ばらさないといけない事態になりました。
そうして、いくつもの三人組の成員が集まった、クラスの男子生徒の大半という人数が、私の目の前で、私と相部屋になることを免れるためのじゃんけん大会を開催したのです。
私は、学年でただ一人、修学旅行参加確認書を提出しませんでした。
この出来事を境に、私の欠席、遅刻、早退の頻度は、だんだんに上がって行きました。
私は一学期の内にも、朝起こしに来た母親に「今日は、心の調子が悪い」と精神科通いをさせられていることを逆手にとった理由をつけて、欠席することが時折ありました。
その頻度が時折、と言う程度で済んでいたのは、「安易に欠席すれば、私が学校生活に苦難を感じているのを同級生たちに勘ぐられて、ひいては孤独を苦にしている本心を推定されて、彼らに快愉を譲ることになるかも知れない」ということに抵抗があったためでした。
修学旅行の班決めの日の仕打ちを受けた後には、体面を取り繕うほどの気力は尽き果ててしまったのです。
私の留年が危ぶまれるほどに欠席日の密度が増え、「希翼クリニックの精神科医に丸投げすれば息子が学校に行くようになる」という構図が崩れてくると、さすがの母親も慌てて、別の精神科病院を調べ始めたのです。
母親は、私が希翼クリニックに通院する日にときどき順番取り&付き添いをしていて、経営者が長時間待たせる割に、ぞんざいな対応をするのを実地に見て、母親もまたその良識を疑ったことも、転院を思いつかせた動機の一つであったようでした。
母親は知人から評判が良いと聞いた橋谷メンタルクリニックという病院へと、まずは様子見すると言って一人ででかけて行きました。
そうして、帰ってくると
「まーちゃん、ゴメンね」と言いました。
母親は新しい精神科医であるところの長谷部先生と、次のような会話をしたそうなのです。
「お母さんとしては、息子さんに学校に行って欲しいのですね?」
「いえ、行って欲しいというほどまででは・・・」
この抗弁に、長谷部先生は、
「いいえ、行って欲しいんですよ」
と追求し、母親の方も、ついにそれを事実として認めたとのことでした。
「いえ、行って欲しいというほどまででは・・・」というセリフが、当時の母親の葛藤を象徴していました。
母親は、いじめ自殺事件があった直後のワイドショーやうつ病に関するドキュメンタリーを見て、世論的には「子供に事情も聞かずに無理に学校に行かせることは悪いことだ」とか「うつ病の診断が出ている人を無理やり社会生活に押し込めることは悪いことだ」という言説が優勢なのは一応知っていたのだと思われます。
また、そのことを一般論として耳にするだけでなく、現実問題として、もし息子に学校に行かせるように促した結果、息子が自殺をしてしまうという事象が起こった場合には、親戚一同や近所の人など身近な周囲からの白眼視が待っていることも想定に入れていたことと思います。そのくせ一方では、息子の高校中退が確定したことを夫に報告しなければならなくなった場合に、不機嫌になった夫から息子のしつけ方について非難を受ける事態になることを恐れていたのです。

母親が、私の高校での実情を正確に調べ始めなかった要因の一つには、息子が登校したくなくなっても仕方がない環境に取り巻かれているのを決定的に把握してしまうと、自分が手を染めている行為が、世論から否定される行為そのものであるのを完全に確認することとなり、罪の意識を味わうことになってしまうかも知れない、それに、自分が夫に、息子が高校中退をする必要があることを説明する義務感を感じることになってしまうかもしれない、という予期的な恐れが妨げとなったことも挙げられると思います。

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