【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その6

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さて、私のかかりつけとなった隣町の精神科外来の精神科医がもし、思春期にありがちなあらゆる心の動き方にも精通していて、学校で友達が出来ていなかったり、理不尽な不法行為の対象にされているのを苦にしていながら、強がりで人間生活全般に興味が無いふりをする心理パターンがあることも知識に持っていて、精神病らしい様相を捏造してしまった私を「うつ病」と誤診したのは仕方がないとして、うつ病を悪化させる因子を患者から減らす観点から、上記の思考形式にとらわれていないかどうか検討する心を、常に思案の余地に入れてくれていて、隔週で通う問診の時間の一部を使って、さりげない会話でその方面を探ってくれて、ついには私の学校生活の概要に気づいてくれて、カウンセリングの技術を駆使して、私の肉付きの面を徐々に溶かしてくれて、その裏の真情を引き出してくれるほどの熟練と熱意のある人物であったなら、私は後年、最低限の事務的な会話以外口を利かなくなるまでに、両親を憎まなかったと思います。しかし「希翼クリニック」の医師は単に薬を売って儲けたいだけの人物でした。
二回目に診療を受けたとき、診察券を受付に出してから、名前を呼ばれるまでに2時間以上かかりました。これ以降も診察を受けるまでの待ち時間は2時間以内で済むことは少なく、3時間に及ぶことははざらで、初診を受ける人が来ている日にかち合うこともたびたびあり、そのような時の待ち時間は4、5時間に及びました。
待ち疲れた末に診察室に入ると、精神科医の方から質問されることは「眠れて居ますか?」「食欲はありますか?」など、基本的なことの他は「薬はちゃんと飲んでいますか?」「副作用の具合はどうですか?」といった、薬に関する項目ばかりでした。
生活歴に関することを聞く質問は「調子はどうですか?」という全体的な質問を一度されたきりでした。
私はその質問に、初診の時に比べて「学校に行きたくない」と言わせた境遇は一週間分、悪化しているのにもかかわらず「特に何も変わらない」と返答しました。この週が、前の週に30分もの面談をしてもらった、この精神科医に一番信頼が残っていた時であったわけですが、その場ですら、やはり自分の内臓を火傷から守る心理が勝ったのです。返答を聞いた精神科医は「もうそろそろ薬の効果も出てくると思いますので、様子を見ましょう」と主題を薬のことに返し「そうしましょう、ではお大事に」と目礼し、私から視線をはずして、処方箋の内容を打ち込むパソコンに向き直ってしまいました。やりとりの時間は5分にも足りませんでした。
その後には、受診日が来るごとに私はこの精神科医への信頼をなくして行き、その面前ではなおさら弱点を漏らすことはままならなくなりました。服薬の習慣が始まってから三週間が経ち、医師の想定している薬の主作用が出始めるはずの時期となっても、抗うつ薬の機序によって、教室内においてもう何日もお互いの顔を見馴れあっている数人の同級生のまとまりが幾つも現れているのを前にした時の、「その外郭に歩み寄りたくても、どの輪の成員もみんなして、私の歩み寄りに意表を衝かれたという表情を向けてくる、つまり『俺は今現在立瀬とは別に親しい間柄ではない』という意見を複数向けられて、自分は友達が出来ていない現状を再確認してしまい精神的ダメージを受けるかも知れないから怖い」とか「それに視線の弾幕をどうにか耐えて接近できたとしても、談笑の仲間に入れてもらえなかった場合には、お近づきに挑戦した前よりも、より完全に取り付く島がなくなるだろうから怖い」とか「それと二年連続同じクラスの所属になって、自分が去年一年間『交友関係を築く事に頓着していない人物』としての演技をしていたのを知っている同級生にその行動を見られたら、本心では実は孤独を苦にしていた証拠を握られることになり、その人物たちから嘲笑をされて、精神的ダメージを受けるだろうから怖い」といった、生存本能に由来する抵抗感が取り除かれるはずもなく、三回目の診察時にも、私は精神科医に「特に何も変わらない」と答申することとなりました。それに対しての精神科医の返答は「お薬を増やして様子を見てみましょう。そうしましょう。ではお大事に」でした。
それ以降の診察でも、この精神科医が「調子はどうですか?」と尋ねて「特に変わらない」というセリフを聞いてすぐ薬のことに話題を移すのは必ず同じでした。生活の中の具体的なエピソードを聞く質問は一度もしてくれませんでした。
「この薬も増やして様子を見ましょう」
「あなたの体重だと・・・、もうこの薬はこれ以上増やせないですねぇ」
「この薬を別の薬に替えてみましょう」
「新しく出した薬の効果もそろそろ出てくると思いますので、様子を見ましょう」
「この薬を足して、様子を見ましょう」
薬の方針を述べた後には「そうしましょう。ではお大事に」といって目礼をするところまでも、いつものお決まりでしたが、この医者は少しも本心から「大事にするように」とは思っていず「お大事に」という言葉は、単に会話を早く切り上げるための社交辞令であったのです。この精神科医からは随所に、言葉のやり取りの時間を短く切り上げさせようとする態度が見え透いていました。初診時に不調を述べたまま「何も変わらない」と報告し続けているということは、この者の方針にしたがっているのに改善しない期間が続いているということになるわけですが、少しも悪びれた表情を見せず、というか顔は常に無表情に固めたままで、口調も事務的でした。
営業時間の終わり頃に診察の順番が回ってきたときには、机の脚の中で、足を組んで、スリッパを放って、膝に乗せた方の足を小刻みにゆすって、面倒くささを有り余らせていました。
処方される向精神薬の種類や量が増えていくにつれて、ひどい立ちくらみに襲われたり、飲んだ後二時間意識を失ったり、重い副作用が現れるようにもなりました。
またその頃には、向精神薬が脳になじみ、母親が旅行に出かけている期間などに、二日続けて服薬しないでいると、不眠、鼻の奥のかさつき、頭痛、けだるさなどの離脱症状が現れるようになっていました。
いつの間にか、両親に対して便宜上精神病者になりすましたい意図によってだけでなく、生理的にも向精神薬とくくりつけられていたのです。

この精神科医は最初に治療方針を発表するのに「あなたに適した療法としては、投薬療法」と「投薬療法」の前に一拍置いて勿体をつけて、あたかも数々会得している精神療法の中から、一つを選んだかのように言いましたが、他の大勢の来院患者たちも、五分刻みで入れ替わり立ち代り名前を呼ばれて、診察室に入っては出て、受付で処方箋を渡されて帰るばかりで、人によって病名も症状の重さも違うはずなのに、診察室で精神科医としているやりとりは、みんな同じようなものであるようでした。
通院の回数を重ねて、来院者を金儲けの道具としか見ない希翼クリニックの経営者の本性を理解すると、この精神科医を、相談役としてみなさせないどころか、それとのかかわりを汚らわしいものにさえ感じ、私の方でも長話を避けるようになりました。
この精神科医の専門分野であるところの、向精神薬の副作用についての悩みすら打ち明けられていませんでした。ドグマチールという薬が処方されていた時節に、乳頭から乳汁がにじみ出るようになったことがありましたが、そのことも黙っていました。

私はニュースや新聞を見たところによって「精神科医」について、重大犯罪を犯した人の責任能力を鑑定したり、ある人に成年後見人が必要かどうか認定したり、人に迷惑をかけたある人を、精神病院の鉄格子のついた病室に強制的に入れるかどうかを裁定したり、いじめを受けていた可能性のある子供が自殺した場合に、その要因がいじめ被害による精神ダメージが嵩んだせいだったのか元からの精神病によるものだったのかを推定したり、性同一性障害を自認する人の言い分が本当かどうか判定したりなどが出来る、社会的に大きな権限を与えられた職業、という印象を持っていました。その「精神科医」の資格を持つ人物から阿漕な振る舞いをされたことは、私に、社会全体への不信感を抱かせる一助となったことと思います。
さらに、必要も無いのにうつ病の診断が下されることは、感覚として嫌な思いをするというだけでなく、将来的にコストパフォーマンスの良い生命保険に加入しづらくなったり、狩猟に興味を持った際に公安委員会から猟銃を買う認可が下りにくくなったりと、現実に客観的な権利を一部失うことであるのを、私は追い追い知識に入れることとなりました。

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