【B毒の汚染】 第五章~忘れられた坑道~ その5

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処方箋を提携の薬局へ持って行き調剤を待つ間に母親は「まーちゃんは風邪なら・・・初期症状だから」と知った風なことを言ってきました。精神科医がそのような説明を含めたわけでもなく、この発言は何の論拠があって言っているのか私にはわかりかねました。
その発言は、息子のうつ病の度合いが、服薬をすれば以前と同じように学校に通えるほどの精神安定を保たせられ、高校卒業を迎えられる程度の状態であって欲しい、つまり、夫の機嫌を損なう事態を起こさない程度の状態であって欲しい、という願望から出たものであったと今では思います。

それから薬剤師に、「半錠に割って飲むお薬が出ているのですが、こちらで割って一包化しましょうか?」と尋ねられて母親は、「お願いします」と即答しました。「息子に薬を飲ませる」という責務を守るために、万事手を尽くすつもりのようでした。
後で知ったところでは、薬を一包化するのに料金が約300円かかるのでした。薬剤師はそのことを予告してくれませんでした。
それから母親は、マガジンラックにあった精神疾患への理解を広めるためのマンガ冊子である「こころがつらいフツーの人々」を取ってきて目を通し「この人なんて、まーちゃんに似てない?」とのぞかせました。
そのページには社会不安障害と診断された患者の症例が描かれていて、青山さんという名前の主人公は、勤めている会社の会議で発表するときにひどく緊張して、手や腋に汗をかいて、頭が真っ白になるという症状があり、仕事がうまく行かず悩んでいるそうでした。その人は学校時代から、学習発表の授業などで、苗字の頭文字が「あ」であるので順番が早く来ることが多いこともあって、人前での緊張感に悩んでいたのだそうです。また、同級生と楽しくしゃべれるかどうか不安で、自分からは話しかけられず、あまり友達ができなかったとも付け加えられてありました。
しかし、精神科を受診し処方された抗うつ薬を規則正しく飲むようにしたところ、病的な不安感は楽になっていったそうです。そして、仕事ばかりに気を取られないようにガンダムのオフ会に出たりして、充実した日々を送れるようになったそうなのでした。
私は、この登場人物に特に共感はなく、参考にできることもないと思いました。
私は総じて、高校を無事卒業して大学に進学し、企業に就職できる気力が残っていた程度の、18歳までの不幸の等級だった青山さんの人生を羨ましいと感じました。
薬の効果のみで、悩みから解放されたということは、自分の心で、病的に作っている純粋な緊張感だけに悩んでいた人だったということで、周囲がマイナスの評価を与えようともプラスの評価を与えようともどちらとも思っていないゼロの状態から、プラスの評価を得ようとして、緊張している人だったということで、学校で、隙あらば積極的に蔑視しようという視線にさらされていて、常に緊張すべくして緊張している身からすれば、その悩み方を贅沢だと思いました。
それに、「オフ会」という語を見ても、オフ会に参加している自分の姿は思い浮かびませんでした。
私には、何かのオフ会に出て、年齢を聞かれて、「高校生なの?」と聞かれた次の、「学校は楽しい?」という質問を前にして、平静な表情を保てる自信はありませんでした。
他のオフ会の参加者に、「高校生活を楽しむ」という多くの人にとって標準である利益を私が逸している(というかいたずらに奪われている)ことを察されてしまうと、楽しいはずの会全体を暗くさせてしまい、こんなに雰囲気を暗くする奴はいらないと言われて、オフ会の二次会に自分だけ誘われないといった事態になりうる気がしたのでした。
確かに、私と青山さんの説明文には「学校時代に友達ができなかった」という文言が共通していました。
私の「お父さんは学校のとき友達いっぱいいたんだよ!!」という言葉を、母親の耳は拾っていたようですが、母親は、同じ「高校で友達がいない」という要素を持っている人物でも、その逆境の度合いはそれぞれ違うことに気づかなかったのです。
というより、見ようとしなかったのです。母親が、学校で何かの発表の時に腋汗をかいているのかどうかとか、ガンダムに興味があるのかどうかとか細かいエッセンスを私に聞いてきもしないのに、青山さんと私の境遇が似ていると評した根底には、その冊子の「高校時代の『友達がいない』という悩みは、大学進学や就職ができなくなるほどの障害とならないことが多い」「医者の言うとおり薬を飲めば、うまく行くことが多い」という二つの統計に肯定を置いている文言を、母親自身が自分に言い聞かせたい心理があったのだと思います。

2006年4月11日の翌日を迎えました。母親はいつもと同じ8時20分に呼びに来て、私は何も言わずに学校へでかけました。
昨日の朝の騒動は嘘のようでした。ただ食卓には、私が毎食後に飲む向精神薬の一回分を、母親がシートや小袋から出して並べて置くための皿が用意されてありました。
母親は、また息子が登校を渋るかも知れないと恐れつつ、おずおずと階段をのぼったかもしれません。
しかし、私が黙って薬を飲むのを見て、また精神科医によれば向精神薬の効果が出るのは2~3週間後であるそうなのに、すでに以前と同じように黙って学校に行く状態になっているのを見て、「息子が昨日漏らした悩みはうつ病の症状による物だったのであり、精神科医の言うとおりに服薬させれば解決する」という方針が正解だったと解釈し、息子自身も納得している、と思い込んだことと思います。
ところが、この朝私が素直に学校に行ったのは、単に昨日両親の不興を買ったことによるセンチメンタルさが残っていたためでした。
向精神薬についての印象も、それを飲めば「精神疾患の患者として治療を受けている人物」らしい演出がいよいよつきまとうし、それに、「うつ病患者に対してのための薬をうつ病でない自分が飲めば、精神という重要な機関を変質させてしまうことになるかも知れない」と恐れを感じたし、薬の説明書に記された、口の渇きだの便秘だのといった医師も想定している副作用を別に味わわなければならない事もわずらわしいと感じたし、肝臓に無用な負担をかけると、将来的に肝臓がんにかかる可能性が上がってしまうという想定が湧いたし、飲む必然性もなかった薬によって製薬会社のミスによる薬害が偶然にも降りかかる可能性もあるし、という五つの意味でただ邪魔であるだけでした。
母親は、錠剤を皿に押し出す際に、お前の人生に協力してやっているんだぞ、とでも言いたげに、妙に丁寧な動作でそれをしてみせましたが、それも腹立たしい限りでした。
皿に錠剤を並べ終えた時に、私が二階に居た場合は、母親は階下から「お薬飲んでねー」と家中に聞こえる声で呼びかけましたが、二人居る兄に私が精神疾患の治療を受けていることをその毎に再確認させてしまうのが、居たたまらないと感じました。
しかし、こっそり捨てることも出来たのに、私はそれらを、ともすれば母親の見ている前で胃に入れました。運命のサイコロの「高校中退」の目が出るかどうかの予想は、私の中で、日を追うごとに現実的な確率に見立て直されていたのです。
校舎で過ごす時間は「精神科に通院している」という事実を背負わされたことによって、それ以前よりもなおさら気が重い物となりました。
私は、私が精神科受診経験者であるのを知った人は誰でも、大なり小なり低い評価でもって私を見るだろうと考えていました。
ましてや、私に対し侮辱行為を働く習慣を持つ一部の同級生がそのことを知ったら、彼らはたちまち大はしゃぎで、「立瀬は精神的な制御の利かないことがある危険な奴だからどんどん人権侵害をして自殺に追いやるべきだ」という意味の宣伝を逞しゅうするであろうと想像していました。そしてそれは単なる予想ではなく地球的な真実であったことと思います。
例の、万が一の不幸でも自分にだけは降りかかってしまう気がする心理も介在していましたが、「希翼クリニック」の扉から道路へ出る瞬間を同級生に目撃されたり、母親がとち狂って担任教師や同級生に「息子はうつ病を患っておりますので、ご配慮をよろしくお願いいたします」と口走ってしまったりなどして、そのことが学級内に知れ渡ってしまう可能性は、私の見積もりによればゼロではなかったのです。

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