【B毒の汚染】 第四章~伝播~ その4

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一方で私は、眠りに落ちれば次の朝には、「自分の指から不快感が移る可能性がある」という発想を持ったことや、どの皮膚に注意を集中したのかを、すべて忘れてしまえているかも知れないと考え、その努力をしました。
眠りに落ちる作戦に取り組み始めた初めのほうには、台所に行って牛乳を飲んだり、バナナを食べたり、今までの人生でなんとなく知った不眠解消のための民間療法を試みました。それから、布団の上に一度立ち上がってから、口の中で「よし、じゃ寝るとするか」などとさりげない言葉を自分の身体につぶやいて横たわり、ことさらにふんわりと頭を枕に乗せ、ふんわり掛け布団を身体に乗せて、いかにも安らかな寝顔を作りました。
これはつまり、布団にもぐれば眠りに落ちるという、昨日までの人生でありきたりだったなりゆきの通りの見かけを作れば、身体が自然らしい流れに乗って、眠り状態になってくれないだろうか?という思惑でした。

しかし、私には一向に眠りは訪れませんでした。
この時の私は、内心ではこれから一生自分の指で肌に触れなくなるかも、という不安がたちこめていたし、意識が落ちる瞬間に期待をかけすぎていました。
どんなに見かけを作っても、少しでも朦朧感がほのさしたり、あくびが出たりすると、それに一喜して「二時間以内にはきっと、眠れている」「二時間も、待ったのだから、今度こそ意識が落ちる時刻は近い」「夜明けまでにはきっと・・・」「三日以内にはきっと眠れる」などと、気配りの言葉を自分に言い聞かせて、心の声を出すことそれ自体によって意識を続かせてしまっていたのです。
また、目が覚めた時、左手の爪が他の健康な皮膚に触れていたという事象が想定し得ることが、まどろみを妨げていました。さらに言うなら、もし不快感が伝染する事があるとして、左手で掻いてしまった部分を記憶できる時にだけ、不快感が伝染るのかどうか、私にはわからないことでした。
おそらく、近辺で読んだ江戸川乱歩の「疑惑」の影響でしたが、寝ている最中に反射によって身体を掻いた部分の記憶が実は、無意識下にすべて幽囚されていて、目覚めた時に体中のあちこちに不快感が生じていることがあり得る、とすら私は怯えていました。
私は、首の後ろの左側への注意のことを忘れるために、眠りへの努力を始めたところが、最初のトラブルからくる、自分の指で皮膚に触れられなくなることへの不安感によって、いつの間にか屈託の無い睡眠をする機能をも失われていることに気づいてしまったわけですが、不眠による困惑は、元来の皮膚感覚に関する困惑よりも、むしろ迅速に、未来への絶望感を呼び覚ましました。不眠が続く事態は、体中の皮膚に不快感が生じることよりも、すぐにも死に直結する障害だと思われるからでした
私の脳裏には、以前読んだ動物の断眠実験の記事から想像した、10日間這い回った挙句衰弱死する自分の姿が、サブリミナル映像のように間歇的に描き出されました。

私は、睡眠感を一しきり待ち焦がれると、今度はまさに生命の危機に駆られて、眠れる身体を取りもどすために、昨日までのありふれていた自分と今の自分との差異である所の、皮膚の異物感の悩みを、決死の思いで取り外そうと挑みました。
それにも失敗した後には私は、衰弱死するよりはマシ、とただ安眠だけを願うようにしましたが、皮膚感覚の安全を放棄する心構えになっても、私には眠りは訪れませんでした。目を血走らせて睡眠感を探す不自然な行動パターンがすでに癖になっていたし、「眠れさえすれば、何でもいい」などと心の声では言いながら、その脳裏では、自分のどの皮膚をも床につけられず、のた打ち回る将来の自分のイメージがちらついていて、結局、皮膚感覚の完全を守りたい心を捨て切れていないのでした。
このように、皮膚の正常を確認したいという欲求と、正常に睡眠したいという欲求は、それぞれが互いにその度合を煽り立て合いました。
皮膚の違和感を取りたい悩みも、不眠の悩みも、安全を求めること自体によって、望みどおりでない証拠が目につき、さらなる安全を求める心が強められて、またさらなる不安材料を集めてしまうという性質の物で、それらに取っ組みあって、私の人生への自信はフロンのオゾン破壊係数の如くに、破壊されゆきました。
私は、枕の表面で首の後ろの皮をくすぐり、携帯電話に電波が来るから眠れないんだと言って携帯電話を別の部屋へ遠ざけたり、「三時間前に戻れたら」と悔い、トレーナーの後ろの襟ぐりの両端を持って、ネックリブの凹凸を糸鋸よろしく首の後ろを挽いたり、あるいは、枕に首をめり込ませたかと思えば、B(フルネーム)!!と雄たけび、「そんな現象は起こらないよ。もし世界に自分の指で自分で触れることで不快感が起こるという現象があれば、とっくにテレビ報道されているはずだよ」と気休めを言い聞かせ、首の後ろの皮を左手の指の頭で打診したり、「三年生を送る会の時に、席を蹴って会場から出ていれば」と嘆き、布団を殴りつけ、脳内に眠れそうな感覚が無いか点検をした後に、一時的に皮膚感覚のことから気が逸れていた自分に気づくと、小康したかも、とまた後ろ髪で首の後ろを掃き、右手の薬指の付け根に対して「あーあ、さっき左手で掻いたから毒で汚れちゃっているよ」と心の声でわざと悪口を言って、意識をそちらに移し替えようとはからったり、Bに不眠死さえさせられなければならないのかと憎しみ、などと狂騒劇を演じました。
その内にとうとう、首の後ろの左側のうずき感が、何も触れさせていないのに、蜘蛛の糸で作った布をのせられたような感覚がするほどまでに、目線を上に傾けて、首の後ろの皮をよると、皺の深さや本数が見える気がするほどまでに、降ろした後ろ髪がたちまち這いはじめるほどまでに定着したのを、私は発見したのです。少し前の時間には、眠りのことに意識が移っていれば、その間皮膚感覚の観察をあやふやにできた時もありましたが、今では皮膚のうずきを半ば感じながら、睡眠のことを悩めるようになっていました。
うずき感への疑いが長い時間維持された上、うずき感自体の増強が感じられたことによって私は、自分しかいない部屋で新たに作り出してしまった一過性ではない疾患の存在を、とうとう認めなければならなくなりました。

その瞬間に私は泣き出していました。
私は、自分の指から不快感が移らないで欲しいと祈り始めた瞬間から、胃の裏の少し下に血が集まって煮えたぎり、それが上方向に押し寄せる波になって、そのあたりの内臓を焼け爛れさせるような感覚を感じていました。学校時代、苦手な球技が課せられる体育の授業が控えている前日の夜のような気分でした。
これはすなわち、不安感焦燥感と呼ばれる感覚でした。この焦燥を消しさりたいという心理がまた、皮膚の安全を確かめたい心と睡眠を求める心とを根底から駆り立てていて、また睡眠に関してはやけどの不快感それ自体によってその達成も同時に妨害しつついて、そして焦燥感自体もまた、私が心の声で自分の身体に「皮膚に新しく異常は起こっていないだろうか?」とか「眠気は起こっているだろうか?」と問うて、応答のあるたびにその度合いを強化したのです。熱い血が遡上する力は、身体全体の体液が下に降りる流れを妨げ、上半身全体の内圧を高めるようでした。顔は火照り、心臓が高鳴り、胃が押し上げられて、吐き出しそうになりました。涙は、上体の内圧を下げようとしたが如くに一気に漏れ出たのでした。
私はとりあえず、首の後ろの左側の皮膚の正常感を請求する取り組みをやめました。だからと言って、この夜の悲惨さが高止まりを迎えたわけではなく、その直後には、皮膚を新たに汚してしまったらどうしよう?という次なる不安が芽生えました。
最初に、こうすれば皮膚の安全が守られると私が考えた条件は「アゴの先端、右の二の腕の横側、首の後ろの皮膚の左側と右側、左手の指、右手の薬指の付け根の部分」と「他の現在は健康である皮膚」を接触させてはならないというもので、私は、かゆみを我慢し、仰向けに寝て腕を開いて手を身体から離して、極力動かないでいて、しばらくその条件を守っていました。しかし、既に増殖してしまった安全を確実に信じたい心理エネルギーたちはやり場をなくし、体中の皮膚に難癖をつけ始めるようになってしまいました。
例えば、身体を仰向きにしていると重力は背面に感じられるわけですが、その重感が、B毒に特有の不快物質が埋め込まれた異物感、すなわち不自然に皮膚が重くなる感じを連想させることに気づくと、たちまち、背面全体が浮き上がる感じがし始めました。私は、左右交互に側臥位をとって、布団に埋め込まれる背面の皮膚を半分ずつにする工夫をしました。

何も変哲も無いズボンの、ポケットの部分の生地が厚くなっていることを、私はおそらく生まれてから一度も意識して来なかったのに、今ではその四角形が不自然にどんどん重く感ぜられました。
その他には、かけ布団に当てている鼻息が跳ね返って顔に当たると、冬の福島の物理的な冷たさから、うずき感が起こる直前に体験した心理的な冷たさが連想されて、顔の皮膚が浮き上がり始める感じがしました。
私は、鼻息をアゴのそばに通らせないとともに、なるべく拡散させて跳ね返るように掛け布団の形を工夫することになりました。

さらに、身体の表面全体を、基本的に心理的な冷ややかさが薄く染み渡っていました。まるで体中の皮膚が、いつ自分の部位が槍玉にあげられるか怖気ふるっているようでした。

横向きに寝るとき、両脚を重ねる事を避けました。内股の重なった間に、人体の皮膚特有のいきれがたまることが、自分の皮膚同士であっても、皮膚に皮膚が触れるということが私には耐えられないのでした。
条件的には、現在は健康な皮膚が痒いときに、右手を使えば掻いてもよいはずなわけですが私はそれをしませんでした。一度掻いてみたところ、健康な指で、健康な皮膚を掻爬した焼け付き感であるのに、今にもその部分がうずき出す気がしました。
このように、どんなに些細なことでも、私を窮境に至らしめたいきさつを彷彿とさせる外力の変化に、ひとつひとつ動揺させられたのです。
そうして、一しきり体表全体のことに意識が移っていた自分に気づくと、また、首の後ろの皮膚が小康していないかを確認してしまうのでした。

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