【B毒の汚染】 第四章~伝播~ その3

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その後の私は、自らの状況を善導しようとして、あらゆる策を講じました。
うずき感を発見してから時間が短いうちは、ふとした拍子にほんの1時間前までの平穏な日常を取り戻せる気がして「自分の指から不快感が移るなどということはないよ、4年間大丈夫だったじゃないか、そんな大事じゃない時間がたてば皮膚の違和感は消えているよ」などと空元気を言い聞かせたり、「痒くても掻かなきゃ良かった」、「1時間前に時間を戻したい」と詮無いことを考えたり、机の上に書きかけていた、推理小説の推敲メモに、それまでの記述と脈絡無く「立瀬マサキ、お前は将来必ず立派な小説家になる!!」などと、現今の自分から遠い幻想を記したりしました。
また、不安の対象となっている皮膚を、かけ布団越しにこすったり、延ばし広げたり、揉みほぐしたり、あるいは、心的な冷感を実物の極冷で紛らわせられる気がして、保冷剤を持ってきて押し当てたり、原始的な処置を試みました。
どの工夫も、一しきり済ませた後には結局、感覚が何もなくなっているのを祈念しながら皮膚をくすぐりに行ってしまい、思いついた策の数だけ失意を深めたまでのことでした。
また私は、枕の位置を頭頂側にずらして、後ろ髪をかき上げて、首の後ろの皮に何も触れていない状態にしたり、あるいは逆に枕をべったりと全面に押し付けました。こういった作戦は、首の後ろの皮膚全体で感覚に差異のある部分をなくすことによって、心の中の自問自答の声を減らすことができる、一番楽な体勢でしたが、私はそれを長くは続けられませんでした。
理由の一つは、違和感が目立たなくなってから10分も経たずに、焦りによって、「もしやもう解消されたのだろうか?」と期待して、また確認をしてしまうためでした。もう一つには、本来はBの不法行為さえなければ寝る体勢も寝具の形も好きに選べたはずなのに、首を枕に押し当てる姿勢を喜ばされている、Bによって行動を変えさせられていることへの怒りに起因しました。
中学校の予餞会から四年近くが過ぎ、さすがに自然の効力でやや薄まっていた、Bへの怨恨は、もはやかつての絢爛なる輝度そのままに燃え盛り、時に私は布団を殴りつけ、久方ぶりの「B(フルネーム)!!」という怒声を上げました。
この阿鼻叫喚の場で、私が考える最悪の展開は「Bに複数回触れられたことがある皮膚か、その皮膚を掻いた指か、その指ですでに掻いてしまった皮膚と、他の現在は正常である皮膚と接触させれば、後にそのすべての部分に不快感が残ってしまう」という内容で、そのことへのリスクマネジメントもどんどん進んで行きました。疑惑の皮膚に摩擦を加えてみた時も掛け布団越しにしたし、首の皮に何も触れさせないために、髪をかき上げる時には、髪に感覚がないことを喜んだのでした。当然もはや右の二の腕だけでなく、アゴも高濃度汚染区域の扱いとなっていました。
私はいつしか、例の、数週間に一度患部の不快感が増悪する日の如くに、鼻息がアゴをかすめないように、掛け布団の溝で受け止めていました。
「もし偶然にもこの一刻にアゴが増悪状態に入り、正真正銘の不快感が分泌されれば、それが参考になって新たに汚した皮膚の不快感の完成に力を添えることになるかも知れない」と恐れ、初めから増悪状態に入る瞬間を判定できないように備えたのでした。

(つまり、この夜がもし不快感の増悪する日に当たっていたら、私にとって特に不都合であったわけですが、本当に増悪が起こったとしたら、アゴは鼻息を避けようとも、多少なり不快感で湿った感覚があるはずで、歴史的な意味では、別に増悪は起こっていませんでした。
このことが、増悪の法則は、私の心情的要因ではなく筋肉の凝りなど肉体的要因に影響されるものではないかと推定させる根拠の一つです)
また、右手を守ろうという意識が、根付いていました。「もし左手だけでなく、右手が毒で汚染されたら、一生自分の手で自分の身体を掻けなくなる」と恐れたためでした。緊急事態の間、私は基本的に掛け布団で右手を包んでいました。
私はさすがに、B毒のメカニズムについて、霊魂の汚れとか呪いとか超常的な力や、B毒と戯れに名づけながらも、Bから分泌される毒とかプリオンといった未知の科学物質によって起こる、とまでは考えていませんでした。あくまで心因性による物だとは、大まか考えていましたが、自分が戦っているのが服の重みだとは思いもよらないことでした。
ただし最前までの自分と今の自分の変化が、新たにBに関するいわくがついた皮膚に意識を集中しているかいないかであるとは、粗大な前提としては感じていました。
それで、一つの作戦として、首の後ろの皮のことから意識を逸らすために、あえて不浄の左手で、全身を次々に掻いていくことをことを思いつきました。心の中に設定したBに「私はお前に行動を制限されてなどいない」と言い張りたい反抗心もそのことを支持しましたが、最悪の事態への想定が勝ち、それを思い留まらせました。
結局、私がこの場で左手を使って掻けたのは、右手の薬指の根元と首の後ろの右側の皮膚くらいでした。
私の利き手は左であり、利き手でない薬指の根元ならば、もし不快感が生じた場合でも、普段の生活で物品が接触しにくい、という心得でした。首の後ろの皮膚の右側が選ばれたのは、今現在、右側の何も屈託のない皮膚の状態が参考になって、左側の感覚の異常さがより際立たされている状況がある気がしたので、右側も汚して、均整を取るつもりであったのでした。均整を取ることによって、今のところ一番「B毒の完成」へ向けて進んでいるらしい、首の後ろの左側への注意を逸らせようとしたのでした。
しかし、そうしたダミーで汚した皮膚に意識を集中しようと努力することは、却って何のためにそれをしているのか、どの皮膚の感覚のことを忘れたいのかを明瞭にさせるだけで逆効果でした。

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