【B毒の汚染】 第三章~涵養~ その4

Pocket

私は確かに、福島での暮らしを楽しんでいました。祖母は、「こんなおばあちゃんのとこにいて何が楽しいんだろうねぇ」と、世間話に来た近所の人や、時には私本人に折りに触れて言いましたが、毎日、農産物直売所に朝から通っていて、店員の人に「何やってる人??」という表情で見られている気がしましたが、お盆に親戚一同が集まった時、いとこに「何で福島に?」と聞かれて返答できませんでしたが、とうとう、無職のままで半年余りが経過した頃に、母親がいかめしい表情で「あんた、このままじゃ幸せじゃないでしょう?」と言って来ましたが、2008年の下半期の記憶は、たしかに私の生涯にとって、砂を噛むような高校生活の後のオアシスとなったのでした。ただ、さすがに私は浮世離れが続いて、張り合いのなさを覚えてきました。

さて、母親の「幸せじゃないでしょう?」という発言には、言外に「大学に行く準備を始めよ」という意味が含まれていた物と思います。両親の観測によれば、高校での私の傷心の度合いは、「高校卒業から1年程度で快癒し大学進学の準備を始められる程度」ということになっていたようです。
私とて高校時分、入学当初にはあった体育館で番号順に座るルールがいつしか済し崩しとなり、自分にだけ前後に空間があるのを目の当たりにしつつの進路ガイダンスで「うちの高校では九割五分の生徒は大学に行く」だの「大卒と高卒では選択肢の幅がかけ離れている」だの「正社員と非正規雇用とでは生涯賃金が段違いである」だの講釈を遠くに聞いていたり、高校三年生に上がった時に、他の同級生たちが、特に疑念を持つまでもなく、無造作に大学進学の道を選んでいるのを横目にしていたりして、大学卒業が人生設計の定石であるのを知らないではなく、私の中にも、将来のどこかにそれを組み入れるべきなのかな、という思想がなんとなく根付いていました。

しかし、両親の希望的観測を尻目に、2008年度も全く受験勉強していないので、すでに二浪が確定している訳ですが、私の中ではあと最低二年は受験勉強に着手することはありえませんでした。

この頃私は、農産物直売所の壁に張られた「空手道場の生徒募集」のポスターに応募する計画を立てました。すなわち、作家の夢が破れた時でも、大学進学ができるようにするために、文学と並行して武道の鍛錬もすることにしたのでした。
私にとって、大学進学は、あらゆる社会参加の内でもっともハードルの高いことでした。私の、大学生活へのイメージは高校生活からの類推となっていて、私は、高校時代と同等の逆境に対し、四年間耐え切る対応力を身に着けてからでないと、大学進学はできないと考えていたのです。

もしも小説の新人賞が受賞できれば、それはもう作家として就職したのも同然であるし、AO入試を利用して楽に大学進学することもできるし、文名を鼻にかけて、ちやほやされに毎日登校することができるし、高校時代の同級生も見返せる大幸運でしたが、私はその成功率をはなからそれほど高く見積もっていたわけではなく、空手道場のポスターはずっと以前から貼られていた物で、初めて見た時から次善の策を設ける発想は芽生えていたのですが、福島に移ってきた当初には、新たに他人に氏名を知られることを想像するだけで、身震いがする状態であったので、それをすぐに打ち消していました。

しかし半年あまりも気ままな生活を営んで、校舎で同級生から一方的に無下にされた記憶が全体に薄れて、心理的抵抗も弱まると、高校の時には押さえつけなければならなかった、他者からの友愛につつまれ、ときめきたいという願望が戻ってきたようでした。
それに、当初の計画のように、生活時間をすべて読書で埋めるのは、無理だということがわかりかけてきました。ずっと同じ姿勢で、同じ時間の使い方をするのは、途中で飽きてしまって集中できないし、運動不足もあいまっていらいらしやすく、小説の中の言語的に嫌な記念品に目が行きやすく、読書を中断してふて寝してしまうことも多くなり、時間の不効率であるのに気が付きました。

次の記事{第三章~涵養~その5}へ進む→

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です