【B毒の汚染】 第三章~涵養~ その3

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しかし私は、折々には負の遺産が目につくながらも、全体的には福島での暮らしを楽しんでいました。
持ち込んだ書物にもそこそこ目を通しましたが、私は、両手大に並んだ文字の列を延々と目で追うなんてことよりも、もっと胸が湧く時間の使い方を見つけました。それは果実酒づくりでした。私は、高3の夏ごろからすでに、家にあった市販のアンズ酒やライチ酒をたしなんでいたものですが、自らで仕込んだのは、高3の冬休みに一週間ほど福島で過ごした時に、農産物直売所でどでかいカリンが売られているのを購入して、ホワイトリカーも買ってもらって漬けたのが始まりでした。そして、福島での長期滞在を始めてからややあって、祖母が秘蔵していたお手製果実酒の金字塔とも言うべき20年物の梅酒と言うものを飲ませてもらうと、その玲瓏な琥珀色の液体の内では、20年の歳月を経て、アルコール分子と、梅の濃密な香り成分や酸っぱみ成分とが緻密にして均整に織り交ざり、舌の上に乗せれば、微細なアルコール分子が一斉に揮発して、まるで高原にいるような涼しい風が、芳香を運んで鼻の奥まで吹き抜けるのです。
それまで市販の若い梅酒の味しか知らなかった私は、ホワイトリカーや氷砂糖のパッケージで、ハイライトを必ず梅が飾っている理由を理解しました。こうして、私はいっぺんに果実酒の虜になってしまいました。
福島を逗留先に定めたのには、春のさくらんぼやら夏の桃やら秋のなしやら冬のラフランスやら季節の果物が新鮮で安く食べられるという理由もあったもので、ここでは、果実酒の漬けダネにはこと欠かず、祖母宅の倉庫には、かつて祖母の使っていた果実酒用の大きな広口瓶がいくつも空いていたり、はちみつの空き瓶も几帳面に取って置いてあったりしました。そしてホワイトリカーは、私一人で買おうとするとレジで止められるので、祖母と買物に行くときにねだる訳ですが「将来アル中になったら困るよ」と言いながら祖母はいつでも買ってくれ、私がお金を出そうか、と言っても、出世払いでいい、と言いました。
果実酒を仕込む時には、単に果物の味が付いた酒が飲めることが楽しみなだけでなく、美観をも味わうことができました。透明な酒を満たしたガラス瓶の中の果実は、結晶に封じ込められたみたく、色彩がより高貴に映りました。その年の6月にはもちろん王道の梅酒をたくさん漬けましたが、私は、色とりどりの宝石を集めたい気持ちで、宝石に封じられた果実の様々な造形を集めたい気持ちで、直売所に出てきた果実を次々にアルコール漬けにしてゆきました。それに、農業地域の産地直売所には、どでかいカリンの他にも、桑の実、ジューンベリー、フサスグリ、マタタビ、サルナシ、ハックルベリー、アケビ、ナツハゼ、草ボケ、クコ、ナツメなどと、埼玉では見たこともない果実が出てくることもあり、人の知らない果実を使って人の知らない味わいを作りたい好奇心というものによって、私はこういうものを見過ごしませんでした。そのいつ出るかわからない珍しい果実を買い逃さないために、(といってもそういう変わり種はあまり売れないようでしたが)また新鮮な内に漬け込むために、私は、この時期には毎日欠かさず、営業開始直後の直売所に通っていました。それでいて、果実酒の種類を増やすだけ増やして、飲むのはあまりすすみませんでした。私は、さすがにまだたくさんは飲めないし、大御所と呼ばれる梅酒以外にも、20年間熟成しきって独自の風味を保つものがあるかも知れないことを確かめたかったのでした。それに、50年後には梅酒を巻き返して上手に回る果物が、もしかしたらあり得るかどうかの真相を追いたかったのでした。私の果実酒は、初めは名著たちを並べた大きな本棚の、空いた一画に寄せられただけであったのが、どんどん領分を増やして、蔵書の半分は段ボールに逆戻りとなりました。本棚兼果実酒棚の扉を開けると、アルコールで浄化された、すがすがしい空気が鼻を抜けて、胸がすくのでした。

ところで、果実酒作りを楽しむ間にも、やや神経質なところが垣間見える時がありました。ガラス瓶を綺麗にするのに、果実酒作りのサイトなどには「洗剤で軽く洗って内側をホワイトリカーで拭くだけで充分、そうそう果実酒は腐ったりしない」と書かれているのを読んでいたのですが、私は、せっかく作った果実酒を必ず20年間保たせるために力んでしまっていて、ガラス瓶のどの箇所も、指の力を込めた、泡のたつスポンジを最低二周通過させなければ気が済まず、ガラス瓶の指が届かない底の方は菜箸でスポンジを押し付けてでも磨いていました。そしてその後には、大きな鍋で煮沸消毒までして、天気の良い日にはさらに日光にしばらく当ててもいました。ガラス瓶の中にわずかな埃も混ざらないように、果実を漬け始める前には欠かさず入浴をしていました。汚れを取り除きたい気持ちと、美しい物をより研ぎ澄ませたい気持ちは、同じものであるのでした。

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