【B毒の汚染】 第二章~浸蝕~ その2

Pocket

その場でも泣かされ、その場から日が経たない内に何度も地団太を踏まされていた矢先にこんな後遺症まで植えつけられた事が発覚し、私はもはや暗澹たる気持ちになりました。特に「二の腕パン」の寸劇について「Bは自分が先に侮辱行為を始めたのに、私のわずかな反抗を許さず法外な報復を返してきた」という論理の面でも私はBの横暴を憎んだのに「小突かれた二の腕が患部となり、損害を増やされた」という事実の面が加わり、その記憶に対する嫌悪がより一層照り映えることになりました。ただ、不快感の生じた皮膚が別々に複数箇所あったため、その共通点を考えることができ、Bが原因であるのを断定できたところもあるのかも知れません。もし、患部がアゴの一か所だけであったら、私は、なぜだか思い出せないが触ると不快になる皮膚の部分を、いわゆる「トラウマ」を一生抱え続けたこともあり得たと思います。

そして私は皮膚の不快感に気づいてからなおのこと、Bからされた仕打ちを思い出さない日はありませんでした。そのくせBに復讐するとか告発するといった気力は湧いてこなかったのです。Bへの怨念を募らせている内に「Bへのなんらかの報復」という方面に検討が行きかけると、とたんに思考が止まり、目がうつろになってしまうのです。Bは犯行現場で私が反抗心を起こすごとにその芽を叩き潰すパターンを何度も織り交ぜたために、無意識下にその土壌自体が失われてしまったものかもしれません。
というよりか私は全体に、Bからされた仕打ちに後になっても縛りつけられているという事実そのものから、目を逸らそうとしていました。Bの不法行為によって多大な悪影響を受けているということを意識すると、さらなる快楽に酔いしれるBの想像が浮かんでしまうから少しでもストレスを減らすためにそれを意識したくない、という心理が働いていたようでした。私は先に「三年生を送る会」の情景のことや皮膚感覚の異常のことを詳細に(執拗に?)言語化していますが、その事業に取り組むことができたのは、Bに触れられてから四年近くが過ぎてからでした。私が2005年3月15日から四年近くもの間、その場を甦らせながら発した言葉は、自室で一人いる時に高ぶった憎しみに駆られ、壁に向かってがなり立てる「B(フルネーム)!!」という叫びと、「Bさえいなけば・・・」という繰り言と、日記の中に「嫌な奴しか思い浮かばない。私のアゴにしつこく触ってくるB・・・」とか「最近アゴに物があたるといらいらする・・・」とか「B、ぜってぇ殺す、死ね!!」などと、別々の日に計三行が記されていることのみで、ほとんど全てでした。

次の記事{第二章~浸蝕~その3}へ進む→

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です