【孤独な生徒は後輩から職務質問をされる】

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これは二年生だったある日のことでした。南北に渡り廊下が延び、東は二年生の教室が並ぶ廊下に続く、二号館三階の十字路にさしかかって私は、西を向いた、空き教室三個と作法室の間口をあわせた長さにわたる廊下の突き当りに書道室の扉を見かけ「忘れ物を取りに書道室へ向かい、鍵がかかっているので断念して引き返す青年に扮して30秒を稼ぐ」という着想を得ました。先生が室内にいてノブを回した理由を聞かれるかもしれないとも懸念がよぎり、私は0.7秒足を止めましたがそれ以上静止できませんでした。0.7秒の間に私の脳裏には、足を止めて迷う姿こそ道行く人の目を引いてしまう、という恐れが充満したためでした。
具体的には、私の背後の2年6組の前で談笑している生徒たちその他通りすがりの人十数人の内の誰かが偶然にも、私の静止した一刻と、右足は西の書道室方面に向かっているのに左足は南の渡り廊下に向かっている、どこに向かおうとしているのか判然としない不自然な足の配置を目を留めていて、その人がたまたま「孤独な生徒は昼休み中に行き場所を失い、あてどもなくさまようことがある」という知識を持っていて、私に対し「ああ、あの子はクラスで誰とも友達になれていないんだな」と勘付いてしまう可能性が、私には莫大なパーセンテージに計算されてしまっていたのです。書道室へこうべを向けた時点で、私に選択の余地はなくなっていたと言えます。
ドアは開いてしまいましたが、思いのほか中は無人で、電気も消され、四時限目の後誰の入室もなかったかのように人いきれも薄いようでした。ほんの少し時間を儲けるつもりで書道室に静止していると、私はこちらに向かってくる足音に気がつきました。取り立ててわけもなく独りで広い部屋に佇んでいる姿が、他人の注意を引くというのは私の想像しない限りではありませんでしたが、あと一秒あと一秒と時間稼ぎを欲張ってしまっていました。私は、内側から鍵を掛けようかと思いつきましたが、相手が先生ならば余計に怪しまれると考え直し、たった今忘れ物を手にとって帰りかけていた風を装おうかと思いつきましたが、それらしい手回り品があたりに見当たらず、物陰に隠れようかと思いつきましたが、見つかった時には弁解のしようがないと思い留まりました。もはや何らかの手立てを講ずる暇がない程に足音が迫ってきた段階では、私はただひたすら、それが一つ手前の茶室の造りになっている作法室への客であるか、せめてクラスメートではないのを念じました。ドアノブが回された瞬間に私は動悸の最高潮を迎え、全身を急激に強ばらせました。
「何やってるんですか?」
面識のない男子生徒が、私の反射運動をいぶかしんで、既に怒気を含んだ声で職務質問をし始めました。
「瀬上先生と待ち合わせしてるんですけど・・・」
実在の書道の先生の名前を出すによってとりあえず学校関係者であるのを信じてもらおうと辛うじてした返事でしたが、私はこの弁解では反射運動の説明をするのには足りないと感じました。
「何年生の人なんですか?」尋問が続いて私が二年生ですけど、と答えると「じゃあ先輩ですね」と相手は半分敬語になりました。
「瀬上先生はいつもルーズなんです、今日も20分は待たされてるから・・・・・・」
と、私が愛想笑いを無理に作ると、私立探偵は真顔のままで、
「先輩、それはもう探しに行ったほうがいいと思いますよ」
と言いました。私はそうですよね、と頷いて、その横をそそくさと通り過ぎて書道室を後にしましたが、警察官は最後まで不審の残る目で私の姿を追っていました。

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