【自分の分子を全て消したい時間】

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図書室をはじき出された後には、私は昼食を吸引する場所へ逃げ戻りましたが、そこもやはり安住の地とは言えませんでした。校内で比較的最も人通りの少ない区画とは言っても、一号館の東階段の三階より上は、二階の東の突き当たりにある職員室から視聴覚室や音楽室へ向かうときには通り道に当たり、稀にせよ先生が登ってくる可能性がありました。私は最上段に座り込み、東階段全体に響く足音に耳を澄ましました。足音のパターンで最も頻繁なのが職員室と一階にある事務室とを行き来するもので、私はそれが何度杞憂に終わっていても、職員室のドアが開く音がする毎に気を張りました。しばらくの間東階段に足音がないときでも、図書室に出入りする人に自分の存在を勘づかれまいという緊張は依然残っていて、私は所定の場所で身じろぎもせず、くしゃみが出そうになっても鼻と口を塞いで押さえ込み、鼻水が溜まると、呼気で吹き出さず、鼻の穴をつまんでにじみ出た分だけ拭き取っていきました。一階から二階までの足踏みは、間遠い上に数が多くて交錯しがちなため、近づいてくるものなのか遠ざかってゆくものなのか判断しかねました。そして、ある足取りが迫って来ているのではないか?と心付いて、翳りの指す胸にそんなことはないと気休めを言う内に震動はより増して、事態を認める頃にはその人は三階へ登る踊り場を旋回していて、以降は足音の募るのに比例して、私は鼓動を強めました。毎回私は、四階の廊下と階段室との角に手をかけ、片膝を立てて厳戒態勢を敷きましたが、大概は事務室に行っていた司書さんが図書室に併設されている司書室に戻ったとか、職員室の先生が図書室に調べ物に来たというまでの事でした。結局、階段沿いの手すり兼柵一枚を隔てた先にまで靴音が手に取れそうな程に迫ったという経験は、高校一年次全体で5回を数えました。その都度私は、手をかけた角の奥に転げ出て、四階の廊下を一目散に、足音を出さない小刻みな歩幅の全速力で駆け抜け、西階段への曲がり角まで這い込みました。そうして、あわてた後ろ姿を見られていたか足音を聞かれていたか、それでなくともあのあたりに漂っていたいきれの名残香を嗅ぎ取られたかして、その先生が最果ての区画から逃げ去った気配を怪しんでいるのではと不安を感じて、私はその日は東階段の最上段へは戻りませんでした。

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