【最果ての地】

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教室を後にした私は、手にあるチーズ蒸しパンをこの昼休みが終わるまでに食べつくさなければならない気がしていました。それは空腹のためでもあり、生まれてこの方十数年のあいだに染み付いた慣習のためでもあり、校舎内で誰にも見られずに食事をする大変さをまだ知らなかったためでもあります。中庭にはいくつもベンチが置いてありましたが、私はそのようなところで食事をするわけにはいきませんでした。私にとっては、クラスメートはもとより見ず知らずの在校生にさえ、独りで食事する様を見せることは、昼食を供にする友人がいない自分の立場を忖度され、不憫がった目をされるによって、私自身でも内心では苦にしている事実の、その不幸さ加減に他者からの裏付けが加わり、余計に深い無力感にとらわれる結果を生むかも知れないという予期があって憚られることでした。
私はこの日の内に、埼玉県立芋水高等学校校舎内の、最果ての区画を発見しました。そこはすなわち、一号館の、東と西に二つ設けられた階段室の内の東階段の、三階と四階の間の踊り場より上、という区域でした。一号館は、図書室や保健室や職員室などの公的機関が集中している、三つある号館のうちで唯一、生徒が机を並べる教室が含まれていない建物でした。そして、各号館を繋ぐ渡り廊下は、号館同士の一階から三階までのあいだにしか架けられておらず、総じてどの号館の四階も、ある号館から他の号館(それと三つの号館の南にある体育館や北にある食堂)へ行きたい人の通り道として足踏みされることはないと言えました。さらに、一号館の四階に連なった室名を並べると、東端から書庫、定時制の生徒のための生徒会室、廊下の長さ全体の半分を占める軒幅を持つ視聴覚室&視聴覚準備室、トイレ、楽器室、西の突き当りの音楽室、ということになりますが、それらはどこともに、昼休み中にはあまり人の入らない施設でした。また、音楽室や視聴覚室で授業が控えているような場合でも、一号館、二号館からそちらへ向かう生徒は、多くが渡り廊下とすぐ近くの西階段を経路に使うと思われました。
以上のような地理的条件を知識に入れたのはおいおいのことで、その地区が自分と同じくなおざりにされた存在であることは、そのあたりの床が磨り減っていないことや、階段の蹴こみに綿ぼこりの転がっていることなど、どことないフィーリングによって、新入学五日目の私にも一目見て理解の及んだところでした。
私が立っているのは確かに校内で比較的に最も人気のない区画でしたが、そのおかげで安心して食事を取れたわけではまったくなく、このような場所にとどまっているからこそ偶然にも人の目に触れた時には余計にいぶかしがられてしまうと、私は憂えていました
菓子パンの袋を破り始めると、ポリプロピレンがきしむ声は、建物の丈とほとんど同じ垂直距離の吹き抜けに、思った以上に響き渡り、かといってゆっくり破こうにも、亀裂からは早くも、よりによってチーズの乳酸発酵の匂いが漏れ出ていました。ようやくのことで裸にした内容物を、私は今一度周囲を窺ってから、できる限り歯の奥まであてがいました。なるべく短時間に、胃に詰め終えたいと焦りましたが、歯で押し切るにせよグルテンのにっちゃりと挟まった歯を開けるにせよゆっくりとしなければ音が立つ上、喉が飲み込めると判断するまでには予想していた以上に噛む回数が要り、無理に飲み下そうとすると喉に鳴る音が大きくなりました。私は臭いが鼻から漏れるのを恐れて、無意識のうちに吐息を細く出すようにしていましたが、そのパン一つを食べ終えた頃には、私の周囲にチーズの残り香が充満しきってしまった気がしました。階段を降りた下にある図書室を出入りする人の、鼻を鳴らす音が今にも聞こえてきそうで、私は居たたまらなくなり急いでその場を立ち去りました。

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