書名:放浪
作者名:岩野泡鳴
年刊:1910年
装丁:集英社刊「日本文学全集43岩野泡鳴」
引用文のページ数&行数:p171ℓ31~p172ℓ15
引用文に至るあらすじ:主人公田村義雄(たむらよしお)は最近事業に失敗して無一文になりつつあり、家族に送金もできなくなってセンチメンタルな状態である。
そんな時に、日課として銭湯へ行き、入湯をする。
引用本文:
前回の記事参照
管理人のコメント:さて前回の記事に引き続いて、「放浪」にて描写された、センチメンタルな時特有の心理パターンを追ってゆきたいと思います。
センチメンタルな時にありがちな思考その2
「冷感と熱感の混合した不快感にとらわれているため、身体を温めても冷ましても、不安は活性化され、どうしたらいいのかにっちもさっちもいかない。」
「焦燥感の表現」のコンテンツでこれまで何度か紹介してきた、センチメンタル時特有の冷感と熱感の混合した不快感が「放浪」においても鮮やかに再現されています。やはり109年前の岩野泡鳴も「心因性のドライアイスやけどの苦しみ」を味わったのでしょう。
引用文に示された熱感と冷感に関する表現を順に追っていきたいと思います。
「おおきな湯船にはだかのからだをふたたび漬ける時など、何だか自分に犯した罪悪でもあって、
それの刑罰に引きこまれるような気分だ。」
前回の記事で抜粋した部分でもありますが、この一節には「主人公が自罰的になっている」という意味合いのほかに、もうひとつのニュアンスを孕んでいるのだと思います。
それは、主人公が単純に温熱を恐れているということ、自分を温熱状態にすることによって不快感が生じるのを予期していること、つまり、すでに心因性の熱感を不快なものとして抱え持っているために、さらなる物理的な温熱も罰だと感じてしまうということです。
そう思う根拠は、「放浪」の作中では今回の引用文の少し後に、
「この現在でも、あたまや胸が、―――もうからだ全体だが、煮えくり返った跡のように気が遠くなるのをおぼえる。」(p195ℓ40~ℓ42)
主人公がこう語るシーンがあり、田村義雄もまた白隠禅師や私と同じく、特に頭や胸に、ほてりによる不快感を味わっていたことが明言されているからです。
このことから続く本文の「好きな湯にあたりかけるのかしらんと、」という文言も、ただの、物理的に過剰に体を温めた湯あたりではなく、身体が温熱されたことによって、本人の、頭や胸を中心とする不快感が増大された、といういきさつを意味するものなのだと思います。
そうして田村義雄は、身体が温まったことによる頭部の不快感から逃れようと、今度は「水船の水を汲んで顔を洗う。」ということをします。
すると「ひイやりすると同時に、不安の材料がはッきりと胸にこたえてきた」
つまり今度は、上体の熱感とは別に、田村義雄の身体に混在していた、不安からくる心理的な冷感が増幅され不快を味わうことになったことが描写されています。
このようにこの一シーンには、センチメンタルな人間が冷感からも熱感からも突き飛ばされる現実の通りの光景が、見事に写実されているのです。