【B毒の汚染】 第七章~断片の結合~ その1

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第七章~断片の結合~

ただこの時期の私に、ポジティブな変化が起こった部分もありました。

2009年の4月頃でしたが、私が台所の流しの前に立っていると、父親がのっそりと横に来ました。
狂乱状態を演じながら実家に帰ってきて以来、父親と会話するのは初めてでした。
「まーちゃん、これからどうすんの?・・・・・・大学とか」
父親が話しかけてきたのは、私の現在の病状を心配するためでも、とうとう明るみに出た、私が学校で受けた仕打ちの一端のことを慰めるためでも、Bへの憤りを言うためでも、訴訟の準備を相談するためでもありませんでした。
「行かない」
一年前には黙殺した質問でしたが、今回は返答しました。
「何でや?」
と聞かれて、次の文字列を並べました。
「友達ができないから」

長谷部先生との初診時の話題は、ほとんど皮膚感覚のことに終始しましたが、接見の回を重ねる内に、高校はなんとか卒業できたものの、その後ずっと無職であることや、地元が嫌で福島に長期間滞在していたのに伝播事件によって引き戻されたことや、両親を憎んでいることや、普段、学校時代の誰かや家族とも交渉がなく黙りっきりであることなどの私の生活歴が明かされることとなりました。
長谷部先生が知った立瀬家についての事情を時間軸で並べると「両親が息子を無理に学校に行かせれば逆効果になるだろうな、と感じた」という情報の後に、「逆効果を存分にまとった息子が現れた」という情報が続いたことになるわけで、長谷部先生は、パンプキンパイの生地をオーブンに入れたら、パンプキンパイが出てきた時のような気持ちであったかも知れません。
私が長谷部先生に「小説家になるために努力してきた」と明かせたのは、何度目かの診察を経た後でした。
その時までは、自分の習作が特に売れそうだとは思ってはいず、何の勝算もないのに読書や執筆に時間を割いてきたのが、やや恥ずかしかったのです。
以前に「家で暇なときに何をしていますか?」と聞かれたときには「インターネットやTVゲームばかりして、快活なことは何もしていない」と答えていました。
私の作家志望を聞いた長谷部先生は、私との関わりが始まってから初めて、ホッと息をつき、微笑んで、
「小説を書くということは、とってもいいことだと思いますよ」
と言いました。
「嫌な思いをした時のことを思い出して、悪口や叫びを並べるんじゃなくて、第三者的な目線で、起こった出来事を上から見た感じで、書き出していくといいとですよ。PTSDなどに対しても行われる治療法なんですが、嫌な記憶を思い出すつらさにだんだん慣れていけば、ただの普通の記憶にしてしまえると思います。それに、詳しく記録しておくことによって、脳が、もう覚えておかなくていい、と見なす効果もあるようです。それをやれば嫌な思い出は消えてしまうと思いますよ。それも、一種の曝露反応妨害法ですよ。」

そのようにして私は、「自分の過去の心理を詳細に小説に書く」ということを課題に持つようになりました。
考えてみれば私は、理不尽に侮辱された怒りであったり、何も反抗できなかった悔しさであったりの記憶に対して、本家毒への対応と同じく、極力触れないように過ごしていたのでした。

また、私がどんなに過去を流し去りたくても、脳の方では嫌な記憶ほど残しておこうとしているという解説も腑に落ちました。特に、「恨み」の心情に関して振り返ると、私には日常で、オブジェクトに触れることをきっかけに、ある侮辱された場面の光景を連続的に思い出して地団駄を踏むことがあったわけですが、私は無意識の内に、自分の中にいくつも内在されている侮辱を受けた場面の記憶を、ローテーション的に順繰りに地団太の対象にしていた覚えがありました。
私の周囲に張り巡らされたオブジェクトは、視覚的、聴覚的、言語的、動作的な物と多岐にわたっていたため、私はあらゆる屈辱的な場面を、一刻一刻、満遍なく脳裏に蘇らせられていたはずでした。
ある場面のことに対して地団太を踏んで、それから日が経たない内は、同じ場面を想起するオブジェクトに触れても、私としても、なるべくなら、地団太を踏むことに時間を費やしたくない気持ちもあり、それを意識の外に流すことができるのですが、何日か日付をまたいで行くうちに、またその記憶を流せなくなる時が来るのでした。

ただ、長谷部先生としては、私が主に「恨み」の心情から脱せられる効果を期待して、小説で心を書くことを薦めたことと思います。しかし、その効果よりも先に、長谷部先生の想定していなかった別の良い変化が起こりました。
私は、憎しみの情に限らず、毎日の昼休みに自分だけ机をつき合わせて弁当を食べる席に誘ってもらえない寂しさであったり、昼休みの教室から図書室に逃れ、本棚の間に潜みながら、いつ同級生が偶然に来室しないかどうか思案する恐怖であったり、希翼クリニックの待合室に座る恥ずかしさであったり、修学旅行の班決めの現場に居合わせた悲しみであったり、負の感情を感じたあらゆる記憶をことごとく言語化できていませんでした。
史実的には「級友の誰とも馴染みの間柄を築けていない」という特徴が付与されたことが、高校在学中に私に降りかかったあらゆる災厄の源でありました。
したがって、マイナスの感情を感じた状況を思い返す習慣を始めた私が、まっさきに思いついた文言は「自分は、クラス内のどのグループにも入れなくて悩んでいた」とか「青春の思い出を沢山作っている同級生たちが羨ましかった」といった、恥ずかしさに関するものでした。
そうした文言を着想して、筆に起こした当初にはもちろん、「胃の裏に仕込まれたスポンジから劇薬が染み出して溶岩のような熱さで焼かれる」感覚に苦しめられました。しかし私には、書くのに勇気がいるくだりこそ、微に入り、細を穿ち、徹底して描写すべきくだりなのだと、直感としてわかっていました。逃げずにじっとこらえて描写を続けていると、まさに、本家毒に物を押し当て続けて、不快感を抜く如くに、あるいは、皮を切る痛みを我慢して、膿を抜く如くに、だんだんにその度合いはおさまっていき、日を変えて取り組みを続ける内に、ついには同じ動作による灼熱感自体が起こらなくなったのでした。
花屋でラベンダーを買った時点では、私はあの夜の命乞いしながらの誓いを忘れて、会計の時に店員さんと会話をせずに、固い表情で首振りだけで対応してしまったという記憶があります。
また、長谷部先生に、「どうして両親と仲が悪いのですか?」と聞かれた時には「両親は、学校が楽しくないのに、無理に学校に行かせたからです。」などと、学校生活の陰惨さを抑えた表現をしてしまっていたと思います。
しかし「自分は友達がいないことで悩んでいる」と平常心で口に出せるようになったのと同時に、肉付きの面も消滅していました。その後の私は、スーパーの中や、エレベーター内や、電車内など人目があるところでも、前のようにムダに目つきを尖らせずに、ゆるめた顔で歩けるようになりました。胃の裏の劇薬の染み込んだスポンジが除去されたために、「他人から急にスポンジをつつかれる可能性を下げるための防具」ももう必要なくなったのでした。

長谷部先生に、小説で心を書く取り組みをすすめられたのが恐らく2009年の3月中で、社会を怖がる自分の弱点を認めて、父親に発表できたのは4月の初めでした。数年以上も私の顔に食らいついていた肉付きの面を取り外せたのは、一ヶ月に満たない期間の内に起こった変化であったのです。

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