【奥村進、山浦秀男の倨傲1】

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【奥村進、山浦秀男の倨傲】

2005年11月11日埼玉県立芋水高等学校1年4組の生徒たちは6時限目に保健の授業を控えていた。朝のホームルーム中にクラス担任の城伸助より、「会議室にて後天性免疫不全症候群の病理を解説したドキュメンタリー映画の後半部を鑑賞する」という授業内容が語られた。会議室には横5メートル縦80センチの幅を取る長細い卓を多数、天板が「回」の字を形取るように配置してあり、卓の外周に沿って70脚に及ぶパイプ椅子が並んでいる。立瀬将樹は、五時限目と六時限目の間の10分休み中に会議室を訪れ、四角い陣形を築いている書き物台の、南に向いたあたりの箇所を用いるべく歩みを進めた。「エイズの実態」の前編は、つい1週間前の昼下がりに同じ会議室にて公開されていた。11月4日の朝、城伸助が、当日の保健の授業に他の部屋へ学級全員が移動する段取りの含まれる事に触れるや、立瀬将樹の胸中にはある懸念が湧き起こった。彼は憂いを募らせながら、五時限目の授業が終わる時刻を迎え、そうして真っ先に会議室まで馳せかけた。所定の場では城伸助が映写機の準備をしていた。立瀬将樹があり余る数のパイプ椅子を見渡した後に、
「席順は?」
と尋ねると、城伸助は微笑みつつ答えた。
「いや、フリーです」
立瀬将樹は表情を曇らせつつ一席を選んで腰を下ろした。1年4組の面々は、各自に普段から交際のある同級生とは絶えずお互いの認識の内に寄りて、昵懇である様を明確にし、その絆し具合を保たせたいという意識を持っている。こうした衆が会議室に集えば、特に親交があると認め合うた者同士で構成した小集団ごとにその成員の数に見合うだけの空きパイプ椅子の連なりを探す、という次第で席は埋められゆく。そうして自分は、自分だけが両隣の席の空いている生徒であるのを見るによって、級友の誰とも馴染みの間柄を築けていない事実を明確に認識してしまい、普段よりも余計に孤独感に苛まれる、以上が立瀬将樹の予期した来歴だった。彼には学級へ、出席番号順に則った並びで席を塞ぐように指示が出されるのなら、上の予測は杞憂に終わるとの論理もあった。立瀬将樹は、担任の教師が生徒達の着座する位置を指定しない旨を表した場合においても、自分が苦しむのを免れるためには、先方の意向を覆させなければならない、とまで決心を致していた。1年4組の何人もが、パイプ椅子に腰を下ろしていない内ならば、席順に関するルールが変更された際に、席を移動する必要のある者もないので、交渉相手を説得しやすい、とて彼は、学級の中で一番先に会議室に訪れた生徒になるという条件を満たしたのであった。ところが、実際に自由席ルールを忌まわしがる理由を説明する段に至って、立瀬将樹は「自分には友達がいない」という語を口にするのに、想像していた以上の抵抗を感じ、それを成し得なかった。そして、自由席ルールが施行してあるままで映画の鑑賞会は催され、彼はほぼ危惧していた通りの経過を辿った。スクリーンは「回」の字型の卓の南西の角の先に設けられており、画面に近い座席は映像を見やすく人気がある、従って、そこに居れば、少なくとも自分と他の同級生との位置関係がかけ離れて断絶感の程度が極まることまでは免れる、と踏み、立瀬将樹は腰掛ける場所を南向きの一席に定めたが、この判断は裏目に出た。鑑賞会が級友との仲を確かめ合う場になりさえすれば満足で、映画の視認などは二の次であるところの、大多数の生徒は、入り口に近い北寄りの位置に座した。ただし佐藤辰巳は、立瀬将樹に比べれば、クラス内では社交もあるが、それを温めるより、保健のテストの出典にされるという映画の内容を玩味する目的を優先し、立瀬将樹と隣接しないまでもほど近い地点、南東向きの座席に身を置いた。映写機が動き出してからも立瀬将樹の「エイズの実態」の要旨を理解しようとする志は、時折、自分が今他人にどう思われているかの意識にかき乱された。自分に近接した佐藤辰巳はクラスメイトと交流の多い方でもないので、部屋の南方をのぞむ人が、学級の人好きのしない者が大勢から遠くへ寄せられているといった印象を抱くのには変わりないやもしれない、と不安がる一方で、彼は、党員が二人いるならば、「知識の含蓄を第一義に考える一派が動画を見やすい区画を占領した」という趣きをひけらかし得る可能性がある、との楽観を覚えた。これが遂行できれば、自分には佐藤とともに「人望の厚い者ほど優位とする価値観に頓着しない人物である」という体裁が付与され、以って室内の北側の面々が抱く「仲間同士で互いの存在を相肯定できる我々に対して南側の者たちは不幸だ云々」の見解は実感の乏しい物となるとて、立瀬将樹は映像の流れる間じゅう、何の引け目もないかの如くに取り澄ました表情を保ち、スクリーンと手元とにだけ視線を行き来させ、作中の論旨をメモするようにと配られた用紙に筆を走らすに努めた。やがて6時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、「エイズの実態」の上映は中断された。その続きが放映された一週間後の会議室において、立瀬将樹の座した場所は前回選んだ物と同じ椅子だった。一週間前と今日とで座る位置を改めるのは、先の鑑賞会での身の処し方に苦難を感じていた証拠ととらえられて、前回佐藤辰巳とともに、「我々は教養を深める以外、眼中にない同志だ」と主張したのが、虚偽であったことが明白となってしまう、と彼は考えた。
「辰巳があっちのグループに入ったぞ!!」
1年4組の面々が出揃ったところで、はしゃいだ奥村進が声高に言った。奥村進が肩の高さで腕を水平に伸ばして指さした先で、立瀬将樹と人付き合いの乏しさが同等とみなされたことを後悔した佐藤辰巳は、クラス内で下から二番目に発言力を有すると目されている、よく見慣れられたまとまり―――赤崎悠、藤本雄飛、葛西信行に続く座席に腰を落ち着けていた。奥村進の発言に示された、立瀬将樹が哀れな境遇に陥った件を報道する意図を察したクラスメイト一同から我が身に注視が向けられるのを感じると、前回の視聴会において、自分と佐藤辰巳に対して、学級ののけ者同士が辛うじて心細さをしのぐ為に寄り合った、という見解が多くの同級生たちにより定められていたのかと彼は、昨週来の、己が学を修める事の他興味がない価値観の者らしく振る舞う努力が、全く無意義であった事に思い当たった。奥村進の隣で、やはり立瀬将樹に視線を注いでいるのは山浦秀男だった。立瀬将樹は2005年6月5日に山浦秀男の薄ら笑いを初めて目にした。

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※作中の登場人物の氏名はすべて仮名です

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