さて、「B毒の伝播」が起こった一夜の内に私から失われたのは、自分のアゴや右の二の腕に、自由に触れられる権利だけではありませんでした。屈託なく眠りに落ちる権利をも奪われていたのです。
あの晩、私が不眠状態に陥った大きな要因は、自分の指で不快感の生じた皮膚を増やしてしまう可能性への恐れでありました。長谷部先生の初診を受けた後には、Bに直接触れられた部分の不潔感自体を消滅させることができたことによって、同じ要因についての恐怖感は全体には薄らいでいっていました。
しかし発端はどうあれ、私はあの一夜の内に、眠りたくても一睡も出来ない恐ろしさを色濃く記憶に焼き付けてしまったのです。そうして、発端となった恐怖感が弱まっても、「自分が今晩眠れるか?眠れないか?」について不自然に関心を持つ習慣は、その後の生活にそのまま残ってしまったのです。
長谷部先生と初対面した日の晩にに熟睡できたのは、睡眠薬の効果よりも、信頼できる相談相手を得られた、安堵感の効果の方が大きかったのだと思います。
睡眠導入剤を服用する習慣は続いていましたが、その量は飲めばたちまち意識を失えるほどの量ではなく、かといって処方量を増やしてもらうのは前出の理由であくまでためらわれたことでした。
もちろん、不眠の悩みのことも長谷部先生に相談しましたが、長谷部先生もまた決して投薬療法には否定的なわけではないらしく、返答は「薬をもっと増やしてもいいと思いますが?」というものでした。
2009年1月25日の次の日から何日が経っても、床に就いて「眠れなきゃ眠れなきゃ」「もうすぐ眠れるだろうか」などと心の声を出し続けて、かえって意識を覚まさせてしまう伝播の夜と同じ悪循環が、夜な夜な私の脳内に現れることとなりました。
私とて、自分の思考が廻ることによって寝つきが遠ざかるセオリーに気づいてはいましたが、どうしたら睡眠感を確認する考えを起こさないで居られるのか、答えを見つけることができませんでした。「もう不眠の悩みのことを考えないようにしよう」と念じることがまた、心の声を続かせることなのであり、私は気づくと心内語の堂々巡りに引きずりこまれているのでした。
さすがに、本家毒の治し方がわかったためか、一睡も出来ないということはありませんでしたが、当時の私の実感としては、「以前は毎晩八時間眠れていたのに、事件後は五時間しか眠れないようになった」と感じていました。
同時期の私は、常識的な時刻に寝付けば熟睡しやすい気がして、眠りに落ちる予定の時刻を23時に定めていました。
牛乳とバナナを摂って薬を飲み、歯磨きをした後、21時になると部屋を暗くして床につきました。暗い場所に長く居る方が、脳内に睡眠物質をいっぱい溜められる気がしたのです。
しかし、すぐに寝付けることはほとんどなく、何度も寝返りを打ってうめきながら焦りながら、心の電源の落ちない自分の身体を恨みながら、一時間以上を過ごすことになりました。一応、目標の23時までには寝入れていたと思いますが、たいてい夜中に一旦目が覚め、高台ベッドのそばの壁に時計があり、嫌でも夢うつつの眼が吸われ、その短針は必ず五時間分しか進んでいないのでした。時計を見て落胆するものの、まだ朦朧感は残っていて、再び布団を被ると、ほどなくして意識を薄れさせることができたのですが、その後の眠りは、半分意識が覚めているが如く、時々目を開いて夜明けの部屋の景色を視認した記憶が寝起きに残る浅い眠りで、またやたらに夢が多く混ざりました。私は、夢が沢山混ざることを二つの意味合いで嫌っていました。
一つは、「睡眠には、レム睡眠という浅い睡眠とノンレム睡眠という深い睡眠があり、レム睡眠の時には夢を見やすい」という情報を、科学番組か何かで聞いたことがあり、夢を見る時間のことが精神力の回復に寄与しない時間に思えていたことでした。
もう一つには、夢の中にBが出てくるのを恐れていたことでした。実際にそれが夢に出て来た頻度が多かったかどうかよく覚えていないのですが、ただ言えるのが、私が夢を見たくないと考えたのと同時に、夢を見る時間の長くなったことが、その時期におなじみだった「何か願望を持ったそばからその逆の事態になる」シリーズの一個に数えられたということです。
そうした夢うつつを2~3時間過ごし、朝七時にはほとんど眠気は晴れていきました。しかし私は、「もっと眠りたい!」と焦って、自分で固くまぶたを閉じたまま、その後も一時間以上布団にすがりついているのでした。起きぬけの後の生活時間帯も、なんとなく常に身体がだるいように感じました。
健康な睡眠を摂れている自信がないことは、私にとってむしろ伝播毒の悩みよりも重い枷でした。
「いつ完全に眠れなくなる日が来るかわからないしそうした日が偶然に10日続いた場合は自分は衰弱死することになる」という想定がいつでも心の片隅に潜んでいました。
この頃の私は、午前中に家族がコーヒーを淹れていて、その匂いを嗅ぐだけで夜の眠りに悪影響がある気がしてすぐ鼻を塞いだり、電磁波で脳を貫かれると、脳内の睡眠物質が減ってしまう気がして、使用中の電子レンジからなるべく遠ざかるようにしたり、日光をやたらに浴びて、今が昼間であると身体にわからせることによって、夜の寝付きを良くしようとしたり、町の花屋でラベンダーを見かけて買ったり、枕に就けばたちまち眠れる身体をつくるための出来うる限りの努力をしていました。
夕方にさしかかってからは、今夜眠れるかどうかの恐怖によって、また眠れたとしても、眠るまでの輾転反側や、未明に文字盤を見る失望や、夢魔がいつ現れるともしれないことや、朝方二度寝のために朦朧感をかき集めようとして叶えられないもどかしさを味あわなければならない予想によって、胃の裏に焦燥感が見え隠れしました。
「睡眠不足で脳が疲れていることと幻聴にかかるリスクが連動している気がする」という認識も相変わらずで、特に眠りが浅かったと感じた日には、いつ幻聴が聞こえ始めるか気が気でなく、また実際に周囲の生活音が、いやに身体に響くような感じもして、この頃の私は、一日中耳栓をつけっぱなしにすることが少なくありませんでした。
インターネットで、不眠の解決法を探ることもありましたが、少し調べた限りでは、オルゴールの音を聞けば落ち着けるとか、安眠サプリメントの宣伝とか、「あまり明日のことを考えると、目が冴えてしまうので考えないようにしましょう」と理解者ぶったこととかが書いてあるばかりで、なかなか自分に適用できそうな解決策は見つからず、またやはり「うつ病や統合失調症の症状として不眠が現れることがある」とか「不眠が続くとうつ病にかかることがある」といったくだりも時々目に触れてしまい、検索結果の隅から隅までは調べつくせないでいました。
実は私は、2009年2月12日に、一人で福島の祖母宅に帰っていました。
その時節は、本家毒への脱感作療法もまだ半ばの、体調的にはまったく自信のない頃でした。にもかかわらず、私が福島へと突き動かされたのは、2008年4月から九ヶ月近く私と暮らしていて、私と二人でいるのにだいぶ慣れていたはずの祖母の元から、急に立ち去ったままである申し訳なさと、「自分は祖母との楽しい生活を送る権利を奪われてなどいない」とBに対して主張したい反抗心とが、二十日間の内に高まっていったためでした。
行きの新幹線の中では、自分がそこまでの気持ちになろうとは、想像できていませんでした。それどころか、15%くらいの割合で、実家でつきまとわれている不安感が、祖母宅に着けば嘘のように消えて、空手道場に通う計画を再開させる気持ちになれるかもしれない、と期待している部分すらありました。少なくとも、何日間かは逗留できると考えていました。
「母方の実家に行けばいつでもいい思いをする」という子供の頃から築かれていた、ゲシュタルトとか条件反射の作用が、まだだいぶ残っていて、特になんら根拠もなく自然にそのような期待を持たせたのだと思います。
到着して荷物を降ろした途端にそれが始まりました。実家では日中ならばなんとなく燻っている程度で済んでいた胃の裏の火傷感が、徐々に強まっていくのを感じました。心臓が高鳴り、顔がのぼせていく感じもし始まりました。
実家とは違って長谷部先生にすぐに相談に行けない心もとなさと、福島に来るまで旅費として使った一万円をムダにしたくないとか、祖母宅についての楽しいイメージを崩したくないという気負いが、メンタル面の不安を煽ったようでした。
私は、今や絶対に中学校の「三年生を送る会」の時に近傍に居た同級生とは遭遇したくなくて、始発に乗れる時刻に実家を出発したのですが、福島から帰る時にはどうあっても、かなり日が昇った時間に実家の最寄り駅を歩かなければならないわけで、その予定への脅威も、憂いに力を添えていました。
私が埼玉を午前5時に出発して、祖母宅についたのは午前8時を少し過ぎた頃のはずでした。そうして祖母が朝食を用意してくれるのは、いつもと同じ8時30分でした。荷物を降ろしてから、食事の席につくまでの30分足らずの間に、祖母から滞在期間のことを聞かれた時の返事は決まってしまいました。
「おばあちゃん、僕、小説の新人賞に出せそうなプロット、小説のあらすじね、思いついたんだ。パソコンがあった方が、小説を書く情報集めやすいから・・・。これからは、基本的に埼玉に住むことにしたいんだ・・・。それで・・・小説を早く仕上げたいから明日には帰らないと・・・。また、すぐ顔出すからさ・・・。」
そう言わなければ、胃の裏の焼け爛れ方が、あの伝播の夜と同じレベルになりそうだったのです。
私は、不眠への不安から気を紛らわせようとしてあたりを見まわしました。最近まで当たり前に慣れ親しんできたはずの色とりどりのガラス瓶や畳の匂いや洋間の絨毯の匂いや味噌倉の匂いや祖母が食卓に呼ぶ声が、今では、触れるごとに焦燥が胸を突き上げるオブジェクトと化していました。
その晩は、一応実家と同じ程度に眠ることができましたが、もし滞在日数を一昼夜以上と考えていたらそれも保証されなかったかもしれません。
この旅行で、私は自分が祖母宅での時間を過ごせない身体に変わってしまったことを完全に確認したのでした。
第六章~嵐の爪痕~完