というよりか私は、ドーパミンの慢性中毒者たちが介在しなくても、大学のクラス内で休み時間の度に、同級生たちが私だけを置いてけぼりにして楽しげにはしゃいでいるのを目の当たりにするだけで、来る日も来る日も昼休みの毎に、学生食堂の大きなテーブルのはじに一人で座ることになるだけでも、クラスメートの悪気のあるなしに関わらず、グループワーク?ディスカッション?ゼミ?の班決めで、私一人どの班からも誘われない、といった事態がたびたびあるだけで、不登校に陥る自信がありました。
私は、文学と武道をそれぞれに造詣を深めてゆく計画をあと2年はするつもりでした。それは、自らで定めた作家の夢に見切りをつける期限であり、高校時代と同等の腕っぷしを持った敵をねじ伏せられるほどの、空手の実力を身につける、あるいは、そもそもドーパミンの慢性中毒者たちに目をつけられないような威圧ができるほどの筋肉美を得るのに必要な期間の試算であったのです。
そうして、私は、肉体美について、さらなる利点を計上していました。私は、二年後の自分についても、教室の中で、固い表情が崩せず、同級生と打ち解けた雑談を交わすことが、出来ていない予感がしました。空手を特技として持つようになってからも、周囲に肉体美について、尋ねられてからでなければ、そのことを公言できない気がしたのです。
二ヵ年計画が完了した後の自分の姿の想像は、「侍のごとくに寡黙ながらも空手の求道に刻苦精錬していて、いざという時には頼りになる人」というアイデンティティーを以って、同級生に受け入れられている自分でした。
私は、大学で同級生の誰とも、私のことを一番の話し相手と見てくれる関係を作れなかったとして、大きな部屋で学級が思い思いの位置につくという場面で、私の直近にだけ空間があるという状況になった場合でも、肉体美を持っていれば、壁の隅でうつむき加減に腕組をしているだけで、周囲は空手の鍛錬のことを考えているように見做してくれると目算していたのでした。
そして、この計画は福島に来てこそ思い立った物であったと言えます。埼玉にも空手道場はあるのでしょうが、私にとって、実家から空手道場に通うのは根本的に検討に入れられないことでした。
空手を習って身体を鍛えようとしているのを、かつて私に対する侮辱行為をほしいままにした者に見られるのは、その者によって、私が時間の使い方を変えさせられている様子を見られるのは、行為者の加害行為の成功している証拠を与えるのは、行為者にさらなる多幸感を譲ることになる、私にとって恐ろしいことでした。
言うまでもなく、B毒の病状の深刻さが、日に日に実感せられてくるのに比例して、中学校の「三年生を送る会」の場の関係者に断じて物理的に接触したくない、という忌避感がこの時には相当濃くなっていたことも背景にありました。
それどころか、小中高を問わず、私に別に何もしなかった元同級生であっても、彼らと遭遇して、今何やっているの?などと聞かれて、無職なのを悟られる場合をすら、私は恥じていました。
肉付きの面は、私に親しみやすい表情を許さなかったのですが「私、空手道に興味がありまして、ぜひお宅様の道場を見学させていただきたいのですが」などと、格式ばって空手道場に電話したり、真面目な顔をして、稽古の見学をしに行ったりすることは可能でした。空手の師範の方からも、そんな表情を好意的にとってくれたのか、見学の段階なのに、初歩を教えて貰えました。
今から思えば、二年の空手歴を自信にして社会復帰をする計画も、まわりくどいながらも一つの活計であったのかも知れません。確かに言えるのは、指南書を買ったりプロテインを買ったり空手を始める準備をしている最中の期待感や高揚感は、福島での滞在を始める前日にそれまで買った名著たちを勢揃いさせた時よりももっと、現実味が濃かったのです。
しかし、私が本式の入門申し込みを目前に控えている裏で、私の学校時代の負の遺産たちは今一度結託し、次なる協同作戦を決行しつつあったのでした。
〈第三章 ~涵養~〉 完