〈第三章~涵養~〉
大荷物とともにいきなりやってきて「いつ帰るの?」と聞かれてものらりくらりかわす私に、祖母は初めは驚いていましたが、一か月ほど後に私を追って里帰りした母親とも談合があり、母親は私が人間関係に躓いたことをややほのめかしたのか、祖母にも昨年の秋に祖父の亡くなった寂しさがあったのか、とりあえず私はしばらく福島の祖母宅に置いてもらえることになりました。
私はようやく社会生活から解放されましたが、私の周囲にはなおも学生時代の負の遺産が影を落としました。
主な負の遺産の一つが「相変わらず感覚器官と軽んぜられた記憶が連動してしまうこと」でした。
高校を卒業して、私はもう日毎、楽しそうにはしゃいでいる同級生たちを見に行かなくてもよくなりましたが、その後の日々にあってもなんとなく悶々とした気分が続いていました。
あらゆる視覚的、聴覚的、言語的、動作的なオブジェクトに触れるごとに、それに関連する軽んぜられた光景が私の脳裏によぎり、機嫌の良い時にはそれも流せましたが、ともすれば私は、一瞬頭をかすめた過去の一コマによって、精神的なストレスを胸に感じると、私にその映像を植えつけた行為者からたった今にも、侮辱を受けた気分になり、捨て置けなくなり、その場面での行為者の言動全体をわざわざ思い浮かべて、額から恨みの念波を送ったり、その行為者の幻影に、その場で言いたかった罵声を吐いたり、地団太を踏んだり、布団に寝ている時ならば、布団に肘鉄したり、かかと落としをしたりしなければ気が済まなくなるのでした。
B毒のこともまた、2005年4月このかた一日のどこかにある「Bに正常な体を奪われたままなのを確認する時間」は、この頃にはもはや怒りを通り越して、「あの時三送会に出なければ・・・」と悲嘆に暮れたり、「早く皮膚が戻ってくれたら・・・」と祈る時間になっていました。
主な負の遺産の一つが「肉付きの面」でした。肉付きの面は元来、高校の同級生に見せつけるためにかぶり始めた物でした。しかし、いつしか私の人望を集めることに頓着していない演技は板につきすぎ、私は高校の外でも、私について何か予備知識を持っているはずもない人に対してでも、他人と言う他人にフランクな表情が出来なくなっていました。
具体例を挙げると、高校時分のある日、私は電車に乗って横長の座席の、端に人がいるその右隣の位置に坐して、難しい顔をして、しかも視線をあらぬ方へ不自然に固定していました。
そして、電車がある駅に着いて、左隣に座っていた人が降り、入れ替わりに数人の女の子のグループが入ってきました。私は、自分が座る位置を左端にずらせば、女の子たちが並んで座るスペースが空くのを、目の端に見て取っておきながら、いえ見て取ったからこそ、普段は端の席移りたがるのに、私は身じろぎもしませんでした。女の子たちは口々に「アレ?」「アレ?」と言って不思議がっていました。
他にも、ある時などは私は足首に何やら痛みを覚えて、カイロプラクティックの門を訪ねて行ったのですが、先生が、愛想笑いを交えて問診をしているのに、私は、真顔で先生と目を逸らさないまま、問診を受け切ったことがありました。
福島に暮らすようになってからもその習慣は取れず、2008年のある日、私が祖母宅の裏手を歩いていると、キャッチボールをしていた近所の子供たちのボールがブロック塀を越えて、入り込んできたことがありました。私はそれを拾い、私は特に怒りを覚えていたわけでもないのに、この時点で顔が自然に動いて渋面を作っていました。ブロック塀の方に歩いてゆくと、私の足音を聞いて「誰か人いるのかな」と、子供たちが話し合いました。私は、子供たちに渋面を一瞬見られたかというところで、ブロック塀越しにボールをぞんざいに放りました。当然子供たちは受け取れず、アスファルトに転がったボールを拾いに行き、私は、その方を背後にして、こういう時にはたいてい口の中で「人の家にボールを投げ込むなんて」などと、自分が威圧的にボールを返したことに理があったと言い聞かせていました。
表情の変化が乏しいのは、毎日、食事の毎に差し向かいになる祖母に対しても例外ではなく、祖母は電話で母に近況を話す時、私について「なんだか覇気がないねぇ」と触れるのが常でした。