【ヤンキーは見限りが早い】

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2005年5月11日のことでした。その日の五時限目には「進路ガイダンス」という企画があり、一年生全員が講堂に会しました。私は、自分のクラスメートが集まった列を見つけ、所定の位置である曽根高哉の背後へと向かいました。すると、目当ての人物は180度振り向き、同時に列の正中線から少しずれた位置に立ち、手を軽く開いて、前腕だけを、わき腹の高さから列の正中線の方に延ばして、案内するという格好にして、
「前行っていいよ」
と言い放ちました。
言われた最初の、最も主な心情は、きょとんでした。その直前に私が「前に行きたい」と発言したなどということはありませんでした。しかし、相手方の、冷たく高圧的な表情に気おされて、私は無言のまま誘導された方向に進んでしまいました。
そうして順番の交換が終わると、曽根高哉は演壇とは逆方向を向いて、私の本来の列順の、一つ後ろに連なっていた千葉隆に、テンションを上げて話しかけはじめました。講師が演壇に立って説話を始めるまでの時間曽根高哉はずっとその調子だったし、講師が交代する合間などの隙あらばきっと、後ろを向かないことはありませんでした。
私の脳中は、講演の内容よりも、曽根高哉の言動の意図を解釈することの方に支配されていました。曽根高哉は、学年集会の場をなんとしても同級生との人間関係を強める機会にしたかったのです。そうして私は、高校入学一ヶ月目にして、曽根高哉から関係を深めるのに値しない人物と見なされてしまっていたのです。そのように見なされた理由は、他人の心であるので正確にはおしはかりかねることですが、その時期までに私のクラス内で「四時限目が終わるとすぐに一人教室から立ち去り、5時限目が始まる間際に舞い戻る立瀬マサキはどこで昼食をとっているのか謎だ」という噂がかなり濃化していたことと、この日の午前中に行われたスポーツテストにて、ボール投げの種目の時に、私が飛距離13mという著しく低水準の記録を残して、球技が苦手であることが白日の下にさらされていたことの二つの事実は、おそらく影響していたのではないかと思います。
「全体集会および学年集会の時には生徒は番号順で並ぶように」と新入学の初めに指示は出されていました。曽根高哉は、私の存在を否定しながら、そのくせ私を都合のいいように利用したのです。「前行っていいよ」と、私に前に行くか行かないかの動作の決定を委ねた言い方をすることによって、自分ひとりの責任で規律を破った形式にならないように取り計らったのです。
「先生の知ってる子でずっと通知表の成績もよかったけど、部活を引退した後に受験勉強始めたらどこにも受からなかった子がいる。志望校へ行きたいなら三年生から勉強し始めちゃ遅いっつーことだな」
ふと、舞台からの発話が耳に入りました。私は、別に尋ねていないことを答えられるという奇妙な体験を、同じ会合の場で二つ重ねたのでした。進路ガイダンスが始まる前に「新入生にアンケートをとった結果、大学に進学したいという回答が多かったから、大学進学に向けた説明をすることにした」といった、特にコンセプトの説明があったわけでもなく、いつの間にか生徒が大学に行きたいと思っていることを前提にした内容が語られていたのです。進路ガイダンス。進路の、ガイダンス。字義のままを訳せば、高校卒業した後に時間をどう使うかの提案する場、という意味になるわけですけれども、その実態は「なるべく高い偏差値の大学に行くべきだ」という意識を植え付けるつけるための行事であったのです。
5月11日の翌日には、選択科目説明会というやはり一学年の生徒が一同に会するイベントがあり、その場でも私は、デジャビュの如くに、「前行っていいよ」と言われました。前日中に曽根高哉の魂胆はおおよそ分析できていたし、曽根高哉の要望に道理がないこともわかっていましたが、私は「聴衆が仲睦まじい顔ぶれ同士で寄り合うという、壇上の人の講話を妨げる騒がしさ生む、主催者の戒めている行為を犯す者に協力する筋合いはない」と言い放つなり、曽根高哉に反駁を試みもせずに、この日も黙して前方に進みました。
その頃は、クラス内で誰とも交友を結べていない状況に陥ったことにいよいよ目を背けられなくなってきていて、なおかつ窮状から抜け出せる見込みも日ごと薄れて感じられていた時期で、私は相当に卑屈になり「要望に諾えば相手の反感を買わない」との思考回路の元に、級友と利害を分かつ場面において自らの意向を示しがたくなっていたのでした。曽根高哉は、私の存在を否定してまで、千葉隆と会話する時間を増やしたわけですが、後の方の学期になって観察してみると、その二人が特に親交を結んだということはなく、曽根高哉はまた別の気の合う同級生を見つけたようでした。5月11日、12日に曽根高哉から味あわされた不愉快は、単に無駄な精神ダメージであったということでした。この二日間を経た以降、私は、学年集会や全校集会に出るときには、初めから、曽根高哉のひとつ前の番号の古堂あかりの後ろにつくようになりました。初めは、片棒を担がされたのが、いつのまにか私がルールを破る主犯にさせられていたのです

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