2005年6月4日に、私は一ヶ月強ぶりに購買を利用しました。その日は、教科と休み時間の垣根が取り払われて、一日中体育祭の準備のために当てられた日でした。教室の様子は、椅子を上に積んだ机が教壇側へ寄せられて床の作業スペースが開かれていて、そこにいる人数について言えば、体育祭の期間中三学年縦割りで連合を組んでいるので、上の学年の教室へ出し物のおみこしを作る手伝いに行っている人がいたり、中庭へ連合の巨大な看板を描く手伝いに行っている人がいたり、体育委員の人は競技に使う道具を作りに行っていたり、自分の出場する競技がある人はその練習をしに校庭へ出たりで、クラスメートは入れ替わり立ち代りし、教室内に留まっている人数はいつでも通常の半分くらいでした。その様相は、本来の昼休みに当たる時間になっても変わりませんでした。そうした状況を把握して、私は久しぶりに購買で食品を買って教室で食事をとることにしたのでした。
普段の私は、クラス中で自分にだけ一緒に机を組み合わせて食事をとる級友が居ないのを図式化されて、自分の中で断絶感が増大するために、一瞬でもそこには居たたまれない、という第一義的な理由によって、昼休み中の教室から抜け出していて、それでいて、そういう内心や行動パターンを周囲に観察されるのを恐れていました。それは、もしクラス内で「立瀬という子は友達がいないことを苦にしているらしいよ」という噂が広まってしまうと、それまで特段に交渉のなかった同級生たちすらも、その噂を確かめるための意図によって、私に注目を向けるようになり、哀れみや嘲笑の視線が向けられる頻度が上がって、日に日に精神ダメージを受ける可能性が上がってしまう、という長期的な見通しによる物であったのです。昼休み中の教室に限り姿を消す習慣が何日か続いた節目に、私はもちろん、クラスメートから下衆の勘ぐりをされることを想定に入れました。さりとて、傍らに人を置けないまま食事をする最中の胃の裏の灼熱感は想像しただけでも恐ろしいことで、どうしようもできなかったのです。しかも、最近に奥村進や佐藤辰巳から受けた言動によって、勘ぐりによる噂が実際に広まりつつあるのを、私はいよいよ意識せざるを得ませんでした。私は、在室人数が通常の半分で、クラスメートの相関図の視覚化を見ても、比較的胃の裏のダメージが少ない今日にあってこそは、通常の高校生らしく正午に教室で昼食を摂る様を教室の多少の人数にとくと見せつけて、その人たちに「立瀬くんは昼休み中の教室で弁当を食べようと思えば食べられるんだな。孤立していることを、気にしているわけじゃなかったんだな。普段の昼休みに姿を見せないのは何か他の正当な理由があってのことだったんだな。どこか他の場所には友達が居るから、教室で誰ともしゃべらずに食べることも苦にならないのかもしれないな」と思ってもらって、在来の噂を中和したいと考えたのです。
通常よりは軽減されるとはいえ、教室内で食事をする時の精神ダメージは決して少なからぬ度合いと予期されて、購買へ歩いていく道程でも、購買のおばさんに硬貨を差し出す最中でも、私は憂いを覚えていました。
私はアンパンを受け取りました。
「ねえ、あの人っていつもどこで昼ごはん食べてるんだろうねー?」
私の購入は、山口鮎子に見られてしまっていました。見られてしまっていた、というのは語弊があり、二分前の私は、尋常の人の如くに食料を買う姿をさりげなくクラスメートの目に触れさせることを期待しながら、購買が始まってすぐの時刻の、一日で最も大きい混雑にもぐり込んだのでした。
「聞いてみれば?」
山口鮎子の声かけを受けて笠端真由が答えました。
山口鮎子は立瀬将樹のそばまで歩いていき、立瀬将樹に問いかけました。
――ね
「え」
――、
――い
つ。
――も
ど。
「こ」
「で」
――ひ
る。
――ごは
ん。
「た」
べ。
「て」
――ん
――の?
私が想像していた以上に多くの人が、「立瀬将樹の昼休み中の動向」について疑問を湧かせていたのです。
その議題は、クラス内の定番の話題として私を除く同級生の相関の間を何度も駆け巡って行きかえりして、もはや同級生同士でやりとりを保たせて親密さを強化するための道具とすら扱われていたのです。疑惑はもはや中和不可能なほどに濃化してしまっていたのです。立瀬将樹と言えば昼休み中にどこで何をやっているのかわからない人で、立瀬将樹と言えば昼休み中にどこで何をやっているのかわからない人であったのです。「立瀬将樹がどこで昼食を摂っているのか不審だった日数」という分母は、すでに増えすぎてしまって、今日分子を1増やしたところで、焼け石に水であったのです。
「トショシツデタベテル・・・」
と私はまたしてもそう答えました。
この返答は、前回の記事で述べたように大きな矛盾を孕んでいました。
私自身としても、そのセリフの詭弁さに気づかなかった訳ではなく、以前の、佐藤辰巳に対して口にしようとしている段階からすでに、突っ込みを受けたらどうしようと怯えていたし、佐藤辰巳の反応を見た後からも、その場の光景は失敗した事例として後から何度も記憶に甦って来ていました。にもかかわらず、その言葉を使う二回目に至ったのは、他に思いつく行動がなかったためでした。
より正確に言うと、歴史を振り返れば、嫌な質問に対して何とか言い訳できる材料は、実はこの時の私の中に潜在していました。私は図書委員会に所属していて、その要職の書記を務めており、機関誌を作ったり、図書室の利用促進の会議をするのに、昼休みや放課後に司書さんから司書室へ召集されることが時々あり、昼休みに呼ばれるときには大変ありがたいと思っていました。
つまり当時の私はせめて「図書委員の仕事や司書さんの手伝いをするために司書室で食べている」とでも言えば良かったのです。
司書さんの人格がちゃんとしていることを、当時の私は見て取ってもおり、史実としては、窮状を話せていれば、司書さんはどの日の昼休みでも時間中ずっと留まらせてくれたろうし、食事をさせてくれたろうし、体裁がつくように適当な仕事を与えてくれていたと思います。
ただ、「心理描写学研究所の目的」や「【B毒の汚染】第五章~忘れられた坑道~その1」でも述べたように、高校在学中の私は、自分ひとりで家に居るときでさえ、心の中で「自分には高校で一人も友達ができていない」という言葉を作ることができなかったのです。
ここまで「孤独な生徒はまともに昼食を摂れない」のカテゴリーで説明してきた、在校中の私がおこなった同級生に対しての駆け引きの行動は全て、言語を介さずに半意識下に組み上げられた本能的な心理に突き動かされて、実行に移った物であったのです。
「自分はクラスに一人も友達がいないことを苦にしている」という言葉を心の中で作れないということは、当然、「そうして自分は友達がいないことを苦にしていることを人に知られることを心配している」→「最近、クラスメートが自分に友達がいないことを苦にしているのを勘ぐっているらしい」→「その証拠に、佐藤辰巳が『どこで昼飯食べてんの?』と聞いてきた」→「その時はうまく答えられなかったけど、次の機会には大丈夫なようにその対策を考えよう!!」といった、より高度な思考プロセスを経由し得ないことをも意味していたのです。
笠端真由は、カルチャーショックを受けたように大きく目を見開いて、
「ひとりで?」
と尋ねてきました。
私は、
「ウン・・・」
とうなずきました。はっきり明言したくない心理によって首の傾きはかすかで、蚊の鳴くような声でした。
よせばいいのに、惰性によってアンパンを手にしたまま教室に戻ると、私は無意識に伏せ目でいましたが、目の端で大量の好奇のまなざしが閃いたように感じました。それはまったく気のせいではなく、宇部友子という生徒が「あれ?今日は図書室で食べないの?」とおちょくりの表情をして前にやって来ました。私の答弁を受けた女生徒二人が、その内容を一分もかからずに教室中に触れちらかして回ったことは明白でした。私はそれには、かろうじて苦笑いで応えるしかありませんでした。
それから私は、室内の中央から背を向けて、教壇側に寄せられた机の群衆にもたれかかって、黒板側の出入り口の近くで、買った昼食を、喉から胃に落とし始めました。固めた机のバリケード越しなのに、背中は同級生からの視線によって焼け焦げ、身体の上下は、炭化した内臓を境に今にも焼き切れそうでした。