今回の書評は、引用文の素晴らしさによって長くなりましたので、前中後編に分けてお送りします。
書名:放浪
作者名:岩野泡鳴
年刊:1910年
装丁:集英社刊「日本文学全集43岩野泡鳴」
引用文のページ数&行数:p171ℓ31~p172ℓ15
引用文に至るあらすじ:主人公田村義雄(たむらよしお)は最近事業に失敗して無一文になりつつあり、家族に送金もできなくなってセンチメンタルな状態である。
そんな時に、日課として銭湯へ行き入湯をする。
引用本文:『そして、おおきな湯船にはだかのからだをふたたび漬ける時など、何だか自分 に犯した罪悪でもあって、それの刑罰に引きこまれるような気分だ。
湯の底が烈しい音でもして、ほら穴に変じはしないかとあやぶまれた。
節々がゆるんで、そのゆるんだ間から、自分の思想が湯気となって抜け出たのだろう。
ぼうッとなって、自分の神経までが目の前にちらつく。
どうも底から破裂しそうな気がするので、湯船を飛び出し、板の間でふたたび垢をおとし初めると、身が軽くなるにしたがって、不安が自由におそってくるようだ。
好きな湯にあたりかけるのかしらんと、水船の水を汲んで顔を洗う。ひイやりすると同時に、不安の材料がはッきりと胸にこたえてきた。
弟と従兄弟とが樺太で飢え死にするかもしれないが、かまわないか?
東京で、妻子は心配のために病気になるかもしれないが、いいか?
愛妾も、また、薄情を怨んでいるが、どうだ?
彼は小桶を前にすえてただ考えた。そして、いちいちその申しわけの理由をつけた。弟も従兄弟もみすみす事業の不成功をきたしたのは、最も不注意なのだ(註:弟と従兄弟は事業の共同経営者だった)。死ぬくらいの苦しみをして、実際的に目を覚ます方がいい。妻子には家を左右する権利を与えてあるから、それだけの心配をすればいい。愛妾のお鳥も、こちらの難局をあれだけ詳しく言ってやってあるのに、同情の手紙一つもよこさないのは、不埒(ふらち)極まる。ひょっとすると、例の男とまたくッついてしまったのかもしれない。
こういうことは、特にきょうに限らず、このごろは、朝に夕に考えていることだ。そして、三たび湯に漬かると、やッぱり独りで不安の念にたえなくなる。』
管理人のコメント:岩野泡鳴は、活動的な(放埓な?)人生を送り、何か新しい経験をするごとに、そのことを間を置かずに作品に書き表していった小説家です。
「放浪」もまた、主人公の名前さえ変えてあれど作者自身の実生活を小説化した自伝小説であると言われています。
ある体験をしてから筆に起こすまでが早く、記憶が新鮮であったためか、この作品には鮮やかな心理描写が随所に登場します。
引用した、センチメンタル中の心理生理描写も109年の時を超えた現代にも通じる、傷心な時に誰でも共通の生理感覚、思考回路が生々しく描けていると思います。
今回はこの引用文から、私が私自身のセンチメンタル体験と照らし合わせて、秀逸なリアリティがあると感じた部分をいくつか抜き出して、それぞれ解説していきたいと思います。
センチメンタルな時にありがちな感覚その1:
「オフの時間でもことあるごとに『罰せられる自分』の幻影が脳裏に思い浮かぶ」あるいは「無意識の内に自主的に、罰を受ける自分の映像を脳裏にカットインさせてしまう」
「おおきな湯船にはだかのからだをふたたび漬ける時など、何だか自分に犯した罪悪でもあって、
それの刑罰に引きこまれるような気分だ。
湯の底が烈しい音でもして、
ほら穴に変じはしないかとあやぶまれた。」
ただの大浴場が処刑器具に見える、と田村義雄の述懐は滑稽なようですが、こういう感覚は、私にも大いに心当たりがあることです。
この一節を読むと私は、学校時代の球技の授業が控えている前日を思い出してしまいます。
苦手な球技が、体育の授業種目として設定されている期間、すなわち、週一回の頻度で私が、同級生からの叱責や、非難の目や、呆れの表情を向けられることが確定している期間に、私は「オフの時に、日常生活のありふれたオブジェクトをみるたびに、『自分は罰せられるべき人間なのだ』と思考してしまう習慣に捕らわれてしまったのです。
その具体例を、以下に四つ挙げていきます。もう遠い学生時代のことですので、記憶を振り絞っても四つしか思い出せませんでした。当時にはそれ系統の思考が、もっといっぱい入れ代わり立ち代わりしていたと思います。
内罰的になった具体例:
・苦手な球技が授業種目とされる期間の前には「相田みつおさんのフラッシュ作品」(注釈「相田みつを」さんではありません。相田みつをさんは正義や修養を主題にした作品を書く書画家ですが、相田みつおさんという方がそれをパロって世俗、劣情をモチーフにした書画をスライド形式で並べ立てたフラッシュ作品をつくり、これが当時流行っていました。相田みつおさんの作品を引用してみると『美しいものを美しいと云うあなたがいちばん美しい。と、それに気づけるわたしがいちばん美しい みつお』など。私が中高生だった2000年代初頭にはまだYouTubeもニコニコ動画も台頭しておらずフラッシュ全盛の時代でした。)を見て楽しんでいたのに、センチメンタルな時期が始まると、「ああ自分は、こないだあんな不道徳なフラッシュをみたからその罪によって、同級生からにらまれるという罰を受けるようになったんだ」との思考が湧くようになりました。
・道を歩いていて、車いすを使っている身体障碍者の方を見かけた瞬間に、「この人は脚が不自由で大変。自分は五体満足な身体を持っている。自分はそんな贅沢な身体を持っている・・・。そんな贅沢なことをしているから同級生からにらまれるという事態を味わうことになったんだ」という思考が湧きました。
・母親の洗濯してくれた衣類が干されているのを見かけて「自分は、お母さんに負担をかけている・・・。そんな悪い自分だから今、週一で同級生から邪険にされるという目にあっているんだ」と考え込んでしまいました。
・お風呂場に、石鹸が落ちているのを見かけて「この石鹸は、クラスメートに迷惑ばかりかけている自分に対して、神が罰として作った処刑道具かもしれない。石鹸ですべってころんで死ねと・・・。」と考えてしまいました。
上記のような精神構造が築かれてしまった原因について分析したところ、3つの心理作用があったことに思い当たりました。
①「体育の授業中にチームメンバーの足手まといになることについて悪いと思っていて、その慙愧の念が心の中に体育の授業中以外にも漂っていて、それを薄めるために絶えず自分をなじる思考が浮かんでいる」
②無意識の内に、日常生活の中で少しずつ自身に対し非難を加えておくことで『運命的にいつ悪いことが起こってもおかしくない』と常に自分に予期を構えさせておき、その事によって、木曜日の昼下がりに実際に複数の同級生から渋面を向けられる時の精神ダメージを少しでも和らげようとしていた」
③「『体育の授業で嫌な目に合わないようにしてくれたら、自分は罪を反省してこれから品行方正な生き方をする!』と、けなげなことを思っていれば神様が不憫に思ってくれて、超自然的な力で、現実の体育館で同級生からの非難が少なくなるように未来を作ってくれるかもしれない、という神頼みの気持ちが混ざっていた」