「胃の裏の焼け付き感」の座標を調査しました
こんにちは、立瀬マサキです(^O^)
私は最近に、学校での球技の授業や二学期の始業式のような苦手な行事が控えている前日の如くに「胃の裏の焼け付き感」を感じる機会を得ました。
その理由は、私は来月の6日に代々木公園で開かれる東京レインボープライド2018(LGBTのパレード)のボランティアに参加する予定なのですが、そのパレードの内の一つの団を先導をする任命を受けて不安を感じたためです。パレードは車道を行進するので、誰かを怪我させる可能性もある・・・・。ほとんどないだろうけど・・・。
不安は不安ですが、私のボランティア歴はもう4年目であり、他の歴の浅い方がするよりは不安は少ないはずなので、その役目自体は受けるつもりでいます。
さて、せっかく不安な機会を得たのですから、今回は、他のコンテンツでもたびたび述べている「不安な行事が控えている時に胃の裏に生じる焦燥感」の、その詳細な大きさや位置取りを調査してみることにしました。
自分の体内をじーっと観察してみたところ、結論は次のようになりました。
『不安な時お腹に生じる「焦燥感」の本拠地の形は板状をしています。
全体の大きさはおへその3cm下の高さの、横幅8cmを下辺とする、丈15cmの長方形です。(立瀬マサキ:身長170cm体重60㎏の場合)
そして、胴体の厚みの、奥か手前かの座標を言うと、お腹に力を入れて固くした腹筋の、さらに後ろ側の位置取りにある気がします。すなわち15cmの丈は、腹筋の裏側から胃の裏側にかけてに沿っている感じがします。(板状とは言っても、もちろん人体の臓器のことなので、四方の角は直角ではなく曲線になっています。)そうして、長方形には5ミリくらいの厚みがある気がします。解剖学的には、その箇所にはそんな形の臓器はないのでしょうけど、その大きさの、現実的な存在感が確かに感じられるのです。まるで、その器官は普段は紙のようにごくごく扁平な臓器なのだけど「不安な行事が控えている」という状況が訪れると、スポンジのごとくに周囲の内臓の水分を吸い、厚みを獲得する機構を持っているかのようです。もちろん普段とくらべてお腹が膨らんで見えるわけではないのですが・・・。
そして「焦燥感」は読んで字の如く、焦げる感じを起こさせるし、乾燥させる感じを起こさせます。胃の裏の狭い範囲に集まった体液は、急激にその温度を上昇させ、やけどの感を起こさせるのです。
乾燥させる感じとは、先に書いた通り、その組織は周囲の臓器の水分を吸っているので、そのまわりには、あたかもクラッカーを食べていて、砕けたクラッカーが口の中の粘膜に張り付いて脱水される時のような、無数の細かな爪でつねられているかのような微妙な痛みが生じているということです。
そして「焦げる感じ」をもっと詳しく説明すると、それは酸によって焦がされている感じです。板状組織の内部では酸が生成されていて、絶えずそれが少しずつ染み出して周囲の内臓を爛れさせているのです。身体の再生機能は必死で爛れた内臓を回復させようとしているけれど、治したそばからまた薬液が接触してしまうのです。「交通事故のニュースを見る」、「twitterで『TRP2018が楽しみ』というつぶやきを見る」、「自分の脳裏にふとパレードの誘導に大失敗する映像がありありと思い浮ぶ」など、失敗への恐れが煽られるような瞬間には、染み出す酸は増量され、胃を押さえたくなってしまうほどの熱が生じます。
なぜ焦げ付き感のことを、炎ではなく酸による薬傷に例えるのかというと、胃の裏の火傷感には、熱感だけでなく冷感の成分が混ざっているからです。
不安を表す慣用句に「背筋が凍る」とか「悪寒がする」とか「冷や汗をかく」とか「おくびょう風に吹かれる」というものがあるように、また真夏の時期になると、テレビで「納涼企画」と銘打って怪談話やホラー映画が特集されるように、人が不安や恐怖を感じている時には「寒気」の感覚がまた別に、体中に感じられるものです。
パレードを控える私の全身にも、ドライアイスの霧が充満しているみたいに、全体に冷感が、別に感覚されていて、それは胃の裏にも及んでいるのです。だから、私の身体の内では、胃の裏の板状の範囲に限定して、冷感と、体液が突沸する熱感が同居しているのです。熱感→熱感→冷感→熱感→冷感→冷感→熱感と、相反する感覚がアトランダムに感じられる状態になっているのです。
その複雑な「冷感と熱感の混在」を説明する比喩として、私は「酸による薬傷」という表現を選んでみることにしました。
寒い場所に置いておいた酸は、当然低温になっているわけですが、それが肉質についた場合は、冷たい液体がつく涼しさ→酸による火傷の熱さという順序で感覚が起こるはずだと思うのです。
私の胃の裏でもきっと、スポンジ組織から酸が染み出す→酸液が肉質に付着した瞬間の冷感が感じられる→酸が肉質を焼く熱感が感じられる→身体の再生機構が焼かれた肉質を治す→スポンジ組織から酸が染み出す→酸液が肉質に付着した瞬間の冷感が感じられる→・・・・というサイクルが起こっているのだと思います。
板状海綿組織には酸はみっちりと満たされていて、その酸は硫酸の如くに、普通の水よりずっと重いのだと思います。
たかが縦15cm、横幅8cm、厚さ5ミリの容積の板状器官であるくせに、その存在はすごく重く感じられて、仰向きに寝転がっていると、まるでレンガがのっかっている如くに、重圧で押される感じもするし、起き上がって立とうとするときも、身体全体の動作が重苦しい感じがします。
胃の裏から漏れ出る酸によって爛れる内臓を回復させるのに、身体の再生機構は手一杯で、胃の消化の方がおろそかになっているのか、お腹は半ば下痢気味となっています。
あまりに未来への不安が濃い瞬間には、陰嚢までも縮む感じがします。
そして、身体の再生機構は焼かれた内臓をひっきりなしに再生させてくれているけれど、酸によって肉質が沸騰する際の蒸気は、上昇気流となって胃から上の上体に徐々に溜まって行きます。このために、灼熱感には、腹筋の裏から胃の裏にかけてせり上がっていく流れがあるように感じられるし、上半身の内圧はどんどん高まって行くように感じられます。肺は押し込められて息苦しく、心臓が早鐘を打ち、頬が火照って張り詰めていて、内圧を少しでも減らすために、涙を流したくなります。』
このような表現と相なりました。
さて、上記の身体感覚の表現を書き上げたのは、パレードの指揮をすることが確定した直後の2018年4月13日のことであり、それから三日も過ぎると、焦燥感はだんだんに落ち着いて行き、今(11:17 2018/04/30)では役目を遂げる覚悟が決まっています。
私は本番までにパレードのコースを自主的によく下見したり、(外国人の方もパレードに参加されるので)パレード行進中のルールを英語で説明する定型文を勉強したり、他の先輩スタッフの方に注意点をよく聞いたりして、失敗の確率を低くするための対策をとろうと考えています。
思えば、学校時代の球技の授業が控えている時の私にとって、本番での失敗の確率を低くするために苦手な分野を自主的に練習しようということは考えられないことでした。
ある週の苦手な球技の授業を終えて自宅に帰っても、特に何もその球技の練習をするわけでもなく悶々と過ごし、それでいて心はセンチメンタルで、気を紛らわせようとTVを点けてみても、アニメの主人公の小学生男子が出てくると「この子は、少年漫画の主人公の常套として、体育の授業で球技はうまくできるんだろうな・・・」「自分も少年の頃から球技をやっていればな・・・」と想像が膨らんで、また身を焼かれる思いがして、急いで別のチャンネルに切り替えてしまうし、それに「止まない雨はない」とか「生きているだけでまるもうけ」とか「笑顔を忘れなければ明日は明るい」とか、「人生は案外なんとかなる」とか、普段は気に留めないようなJpopの歌詞にも感動して涙を流したりしてしまうし、そんなことをしている内に、あっという間に一週間が過ぎてしまい、また体育館での同級生からの睨みつけか渋面か呆れか見下しという、恐れていたような未来に取り込まれてしまうのでした。
大人になった今から思えば、当時の私はインターネットで初心者歓迎の球技サークルを探して、そのサークルのメンバーの人に事情を話して、ずぶの素人として一から練習すれば良かったと思います。
ただ、学生時代の私は、同年代の青年にとって普通にできることが自分にはできないのが悔しくて、『自分はバレーボールもサッカーも苦手なんだ』と自認することができなかったのです。
その否認の度合いは、アニメの少年主人公を見た程度のことで、胃の裏からは酸が漏れ出るほどの物であったわけで、当時の私は、自分の心の中の声で、プライドが傷つけられる言語的オブジェクトである「バレーボール」とか「サッカー」とかいう言葉を、そもそも作ることすらできなかったのです。
悶々とする時間の中で、ふと「自分は何でこんなに悩んでいるんだろう」という発想が思い浮かんで、「バレーボール」とか「サッカー」という言葉がほんのりできかけて、胃の裏が突沸しかけると、「このまま考え続ければ熱量は無尽蔵に増大し、ついには内臓が焦げ落ちてしまう!!」と危険信号が働いて、すぐに思考を別のことに移そうとしてしまっていました。
心理学の勉強をした今からすれば、「苦手な球技の授業のことへ思考を移す瞬間に感じる焦燥感」も曝露反応妨害法の適応症だったと思います。心の中で悩みの核心に対して意識を向けかけた時の胃の裏の焼け付き感は、そのままじーっと見つめ続ければ、40分を境にだんだんにおさまっていくはずの物であったと思います。